越美山系砂防事務所 国土交通省 中部地方整備局

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過去の災害過去の災害

過去の災害

明治24年から現在までの間に、管内で起こった大きな災害についてご説明いたします。

明治24年災害(濃尾大地震)

昭和24年災害

明治24年10月28日旧根尾村水鳥を震源として発生した濃尾地震(M.8.0)は我が国の内陸部に起こった 直下型地震としては過去最大のものでした。
震央の岐阜県北西部では断層が形成され、最も顕著なのが水鳥に出現した断層で、上下変位5~6m、水平変位2~4mに達しました。 地震による被害も7,000人以上の死者を出すなど、とても悲惨なものでした。
また、明治28年に起こったナンノ谷の大崩壊等も濃尾地震によってゆるんだ地盤がその後の大雨によって崩れ 大規模な土砂災害につながったのではと考えられています。

現本巣市根尾水鳥付近(現在の地震断層館付近)から根尾川をはさんで南東方向(根尾川左岸方向)を撮影

現本巣市根尾水鳥付近(現在の地震断層館付近)から根尾川をはさんで南東方向(根尾川左岸方向)を撮影

濃尾地震による土砂災害

・明治24(1891)年10月28日発生
・地震規模:M8.0(推定)

濃尾地震による土砂災害事例

昭和34年災害(伊勢湾台風)

昭和34(1959)年 伊勢湾台風による土砂災害

昭和34年9月23日、台風15号(伊勢湾台風)となった熱帯低気圧は、26日午後7時に奈良県中部に、9時には鈴鹿峠付近を通り、毎時60kmないし75kmの速さで、午後11時には揖斐川流域を襲いました。
台風進路の降雨の強い右半円にさらされた東海地方は台風史上かつてない大災害に見舞われました。
岐阜県下では9月25日の午後から26日にかけて、雨は激しくなり、台風が通過する前後の数時間は 時間雨量40mmないし70mmという激しい豪雨となって、県下の各河川は数時間の間に警戒水位を突破し、各所で堤防が決壊、橋梁が流失して甚大な被害をもたらしました。
岐阜県下の被害は死者行方不明者108名、重軽傷者1,709名、家屋の流失を含む全半壊16,086棟、床上・ 床下浸水11,089棟にのぼりました。

伊勢湾台風による土砂災害

昭和40年災害

昭和40年災害

昭和40年9月6日に発生した台風23号と、これに続く台風24号、さらに 日本付近に停滞している前線によって、多大な被害を被りました。
14日午後から南東の風が吹き込み、雨が次第に強くなり、揖斐川上流域、根尾川上流域の山間部は 局地的な豪雨にみまわれ、特に旧徳山村(現揖斐川町)、権現山(能郷白山)では日雨量700mmを越えました。この豪雨によって旧徳山村で小学校が山崩れによって倒壊し、教師が1人死亡しました。また、旧藤橋村 杉原地区では「東前の谷」が氾濫し流出した多量の土砂と洪水によって60世帯のうち全壊及び流失が30世帯、半壊20世帯、床下浸水10世帯という災害にみまわれた。旧久瀬村、旧根尾村においても洪水による家屋の浸水、 橋の流失、道路の損壊、農地の流失埋没等にみまわれた。

昭和40(1965)年災害(奥越豪雨)

昭和40(1965)年災害(奥越豪雨)

横山ダムの土砂堆積

横山ダムの土砂堆積

昭和50年災害

昭和50年災害

昭和50年(1975)8月21日から23日にかけての台風6号による集中豪雨は、伊勢湾台風を上回る豪雨となり、旧坂内村広瀬では総雨量が 750.4mmに達しました。この集中豪雨に直撃された旧坂内村ではいたる所で谷川が氾濫しました。特に坂本地区の友谷や、川上浅又川等では土石流が発生し、家屋全壊1戸、半壊3戸等多大な被害をもたらしました。

昭和61年災害

昭和61年災害

昭和61年(1986)8月21日から22日にかけての雨は、本巣市根尾の松田観測所で時間最大雨量 104mmを記録するなど、局地的な集中豪雨となり、各地で土砂災害や河川の氾濫などが発生しました。本巣市根尾松田地区では土石流災害が発生し、特に栃ヶ洞谷では、下流の民家が土砂で埋没するなどの被害が発生しました。

昭和61年 栃ヶ洞(旧根尾村)

昭和61年 栃ヶ洞(旧根尾村)

平成元年災害

平成元年災害

平成元年(1988)9月1日から7日にかけての秋雨前線の影響による集中豪雨は、本巣市根尾樽見地区を中心に総雨量600mmを超す記録的な豪雨となりました。この豪雨により旧久瀬村小津を含め各地の小渓流において土石流が発生し、家屋や道路等に多大な被害を及ぼしました。

平成元年 小津(旧久瀬村)

平成元年 小津(旧久瀬村)

平成10年災害

平成10年災害

平成10年(1999)7月28日の豪雨により、本巣市根尾各地で土砂災害が発生。越波地区や下大須地区などで土砂災害が発生しました。また、10月の台風による豪雨では、旧藤橋村東横山地区の梶谷において土砂が流出し、下流家屋に被害が生じました。

平成14年災害

平成14年災害

平成14年7月9日から10日にかけて台風6号の北上により本州付近に停滞する梅雨前線の活動が活発化し、岐阜西濃地方は時間100mmを超える雨量を観測しました。旧藤橋村東横山地区では崩壊による流出土砂や流木が防火水槽に堆積し、あふれた水により浸水被害が発生しました。また、本巣市根尾においても東板屋地区や松田地区などで浸水被害が発生し、特に水鳥地区の地震断層観察館においては全館が1.5mほど水没したため、長期間の休館を余儀なくされるなど多大な被害を及ぼしました。

台風6号が残した爪痕

平成14年7月10日(水)梅雨前線と台風が旧根尾村を陸の孤島に。 県道・国道は全面通行止め。
恐ろしい自然の力を目の当たりにしました。

県道 松田地区
県道 松田地区
国道157号線 平野地区
国道157号線 平野地区
上大須地区 林道
上大須地区 林道
上葛谷林道
上葛谷林道
中・神所地区 田畑も冠水
中・神所地区 田畑も冠水
貴重な資料も無残な姿に(旧根尾村 地震断層観察館)
貴重な資料も無残な姿に
(旧根尾村 地震断層観察館)
川原地内も浸水
旧根尾村役場裏
旧根尾村役場裏
川原商店街
川原商店街
7/10(水)午前6時37分、そのとき地震断層観察館は…

泥の海と化した、旧根尾村地震断層観察館の時計は奇しくも、110年8ヶ月12日前に起きた濃尾大地震の発生時刻(1891年10月28日午前6時37分)と同じ時刻を指して止まっていました。

地震断層観察館
地震断層観察館
水没時刻を示している地震断層観察館の時計
水没時刻を示している地震断層観察館の時計
7月11日には副知事が来村。
7月11日には副知事が来村
7月12日には、根尾中学校の生徒達も復旧作業に加わってくれました。
7月12日には、根尾中学校の生徒達も復旧作業に加わってくれました

平成18年災害(東横山地すべり)

揖斐川町東横山地すべり

4月中旬に町道「下山線」の小規模崩壊が発生し、国、県、町による現地調査を行い、地すべりを確認した。地すべり活動が確認されたため、4月28日から伸縮計による観測を開始した。5月7日より地すべり活動が始まり、5月10~11日の降雨により、地すべり活動が活発となった。

5月12日13:45、1回目の大きな崩壊が発生し、その土砂は推定約2,000m³であった。その後も20:00、2回目の崩壊が発生、22:38、3回目の崩壊が発生、13日7:57、大規模な崩壊が発生し、推定土量40,000m³が崩壊した。そのため、一級河川揖斐川の2/3を埋塞させたものである。

現在の様子
国道303号より(平成19年7月4日)
国道303号より(平成19年7月4日)
全景(平成19年7月4日 下流より望む)
全景(平成19年7月4日 下流より望む)
河道(平成19年7月4日 下流より望む)
河道(平成19年7月4日 下流より望む)
発生場所 岐阜県揖斐郡揖斐川町東横山地内

揖斐川上流(国道303号)の国土交通省横山ダムと中部電力久瀬ダムのほぼ中間、道の駅「星のふるさとふじはし」の下流約700mの揖斐川左岸に位置します。詳しくはマップを参照ください。

発生場所位置図

地すべり現場位置

崩壊映像

地すべり崩壊映像 Camera1

平成18年5月12日(金) 20時00分

平成18年5月12日(金) 20時00分
地すべり斜面の一部(幅約20m×高さ約20m)が崩壊。

平成18年5月12日(金) 22時37分

平成18年5月12日(金) 22時37分
大崩壊が発生。発生規模は幅約90m×高さ約70m、推定土砂量は約10,000m³。崩壊土砂は、揖斐川に達するが、河道閉塞は見られなかった。

平成18年5月13日(土) 7時57分

平成18年5月13日(土) 7時57分
大崩壊が発生。崩壊土砂により揖斐川の河道が約3分の1に狭まった。崩壊した土砂は、幅約90m×高さ約90m、崩壊土砂量約40,000m³。3分の2に狭まった川幅は、その後の水流により2分の1まで減少した。

地すべり崩壊映像 Camera2

平成18年5月12日(金) 20時00分

平成18年5月12日(金) 20時00分
地すべり斜面の一部(幅約20m×高さ約20m)が崩壊。

平成18年5月12日(金) 22時37分

平成18年5月12日(金) 22時37分
大崩壊が発生。発生規模は幅約90m×高さ約70m、推定土砂量は約10,000m³。崩壊土砂は、揖斐川に達するが、河道閉塞は見られなかった。

平成18年5月13日(土) 7時57分

平成18年5月13日(土) 7時57分
大崩壊が発生。崩壊土砂により揖斐川の河道が約3分の1に狭まった。崩壊した土砂は、幅約90m×高さ約90m、崩壊土砂量約40,000m³。3分の2に狭まった川幅は、その後の水流により2分の1まで減少した。

地すべり崩壊映像 Camera3

平成18年5月12日(金) 22時37分

平成18年5月12日(金) 22時37分
大崩壊が発生。発生規模は幅約90m×高さ約70m、推定土砂量は約10,000m³。崩壊土砂は、揖斐川に達するが、河道閉塞は見られなかった。

平成18年5月13日(土) 7時57分

平成18年5月13日(土) 7時57分
大崩壊が発生。崩壊土砂により揖斐川の河道が約3分の1に狭まった。崩壊した土砂は、幅約90m×高さ約90m、崩壊土砂量約40,000m³。3分の2に狭まった川幅は、その後の水流により2分の1まで減少した。

現場写真
平成18年5月12日(金)
下流より崩壊前の斜面を望む
対岸より崩壊前の斜面を望む
18時
20時頃 崩壊直後
21時頃
22時38分頃 崩壊1
22時38分頃 崩壊2
22時38分頃 崩壊3
22時38分頃 崩壊4 河道の状況
平成18年5月13日(土)
7時30分頃 河道の状況
7時40分頃
8時頃 崩壊直後
8時頃 河道の状況
13時
16時
16時 河道の状況

平成20年災害(西濃豪雨)

平成20年9月2日~3日にかけて日本海と四国沖にある低気圧の影響で、岐阜県西濃地方と三重県北勢地方では記録的な大雨となりました。9月2日からの降り始めからの雨量は揖斐川町東津汲にある小津観測所(国交省)で579mmを記録した。この大雨により各地の渓流で土砂流出が発生し、揖斐川町東津汲の下谷では土石流により国道303号が約39時間にわたり通行止めとなった。

平成20年9月2~3日 西濃豪雨

雨量(揖斐川町小津):約20時間で579ミリ(最大時間雨量 116ミリ)

平成20年

平成20年

平成20年9月2日~3日 西濃地方の豪雨における土砂災害に関する情報

平成22年災害

揖斐川町坂内川上地内で山腹崩壊が発生しました。崩壊規模は推定で延長約70m、高さ約80m、深さ(鉛直方向最大)約10m、崩壊土砂量20,000m³でした。

平成22年1月11日 坂内川上山腹崩壊

平成22年

平成22年1月 揖斐川町坂内川上地先で発生した山腹崩壊に関する情報

平成26年災害

平成26年8月9日~11日 台風第11号による管内被災状況

平成30年災害

平成30年7月豪雨の記録~越美山系砂防事務所の災害対応~

令和元年災害

令和元年台風第10号による越美山系砂防事務所管内状況

令和5年災害

令和5年台風第7号 管内状況(速報)

越美の大規模崩壊地

管内で起きた災害の中でも、大規模な崩壊についてご説明いたします。

ナンノ谷大崩壊(明治28年)

ナンノ谷大崩壊

ナンノ谷大崩壊は、揖斐川の右支川、坂内川右岸ナンノ坂で発生した大規模崩壊であり、濃尾地震から4年後の明治28(1895)年8月5日に、この年の7月29~30日にかけての豪雨が誘因となって発生したものです。
8月5日午後3時ごろに発生した一回目の崩壊、午後6時ころの二回目の崩壊により坂内川が堰き止められ、幅36~109m、長さ1,500mに及ぶ天然ダムが形成されました。推定崩壊土砂量は153万m³、頭部の標高は985mで、半円状の高さ約60m幅約300mの滑落崖が形成されました。
崩壊によりナンノ坂にあった焼き畑の出作りの家4軒は一瞬にして押し流され、4人の犠牲者を出しました。また、天然ダム上流の椀戸口でも引き水(上流にたまる水)により出作りの家2軒も流出した他、崩壊から6日後の8月11日、午後4時20分に天然ダムが決壊。ダム決壊に備え見張りを立てていたため最悪の事態はまぬがれましたが、川上村及び下流域の広瀬村、坂本村、(現、揖斐川町坂内川上、広瀬、坂本)では氾濫による流出家屋23戸等、大きな二次災害をもたらしました。
現在のナンノ谷には、床固工や砂防ダムが設置され土砂の流出を防止するとともに、当時の天然ダムの湛水域であったところには砂防公園が整備されています。崩壊跡地の植生の被覆もよく安定した状態となっています。

明治30年当時のナンノ谷崩壊(金原明善記念館蔵)
明治30年当時のナンノ谷崩壊
(金原明善記念館蔵)
ナンノ天然ダム
ナンノ天然ダム
崩壊箇所
崩壊箇所
現在のナンノ天然ダム
現在のナンノ天然ダム
床固工群
床固工群
床固工群)
床固工群
階段護岸
階段護岸
崩壊箇所の今
崩壊箇所の今
砂防公園
砂防公園
ナンノ谷バイクランド
ナンノ谷バイクランド

根尾白谷大崩壊(昭和40年)

根尾白谷大崩壊

昭和40(1965)年9月13日から15日にかけての集中豪雨によって、15日の正午頃、大音響とともに根尾白谷源頭の尾根部、特に東側の部分が崩壊しました。推定崩壊土砂量は107万m³とも言われています。
崩壊土砂は、大半が根尾白谷中流部の狭窄部より上流に残留しましたが、残りの土砂は本川八谷に流入し、かろうじて最も近い小倉集落は埋没を免れましたが、耕地の埋没や土木施設などの被害が生じました。
この時の崩壊は、最奥部の幅約400mの急崖全体にわたって発生したのではなく、その東半分の幅約200mが崩壊したものです。現在もガリー状の侵食が進んでおり、土砂生産は活発に行われています。また、上部斜面に平行して走るクラックや山稜には線状凹地が確認され、将来この西半分のブロックが崩壊した場合の推定土砂量は、約110万m³となり、昭和40(1965)年の崩壊土量とほぼ同じ数値となります。

根尾白谷(崩壊前)
明根尾白谷(崩壊前)
根尾白谷(崩壊後)
根尾白谷(崩壊後)
別アングルから見た崩壊地
別アングルから見た崩壊地
崩壊地拡大
崩壊地拡大

徳山白谷大崩壊(昭和40年)

根尾白谷大崩壊

昭和40(1965)年9月14日午後10時頃、根尾白谷崩壊と同時期の集中豪雨を誘因として、揖斐川左支川白谷の徳山白谷では、地すべり性の大規模崩壊が発生しました。183万m³(東京ドームの約1.5倍)もの崩壊土量が約200mすべり落ち、白谷を堰き止め、高さ65m、上流側に湛水面積約3,000m²の天然ダムを形成しました。崩壊したブロックは、河床に張り出した平坦な台地状の地形を形成し、背後には比高約200mの滑落崖が形成されました。
天然ダムは水位の上昇につれて左岸側上部が決壊し、段波状となって流下しましたが、周辺には人家が無かったため大きな被害にはなりませんでした。災害応急工事として放水路が開削され、その後、天然ダムは徐々に埋積が進んで消滅しましたが、堆積土砂によって平坦な谷底(幅約250m)が形成されました。これらの地形によって、当時の天然ダムの名残を確認することが出来ます。また、あまり乱されずに崩落した崩積土上には広葉樹の高木林が育成しています。現在は、再崩壊防止と緑化を目的として、山腹工が施工されています。

川から見た崩壊地
川から見た崩壊地
崩壊地(秋)
崩壊地(秋)
えん堤(下流より)
えん堤(下流より)
崩壊地別アングル
崩壊地別アングル
左支川導流工(上流より)
左支川導流工(上流より)
本線護岸(上流より)
本線護岸(上流より)
本線護岸工(下流より)
本線護岸工(下流より)
崩壊地(冬)
崩壊地(冬)

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