木曽三川治水偉人伝 岡田将監善同、善政(よしあつ、よしまさ) |
濃州国法の別名は将監国法 | |
濃州国法は、近世における美濃国独自の治水制度です。 江戸幕府を樹立した徳川家康は、社会生活の安定と生産向上を図るため、近世独特の治水制度を確立しました。近世の治水制度は、 1.公儀普請(幕府が行う工事) 2.御手伝普請(幕府の命令を受けた大名が他国の工事を行うもの) 3.国役普請(大名に費用・労役を負担させた工事) 4.自普請(農民などが自ら費用・労役を負担する工事) の4形態ですが、美濃国の木曽川水系では、これらとは別に、独自の規定をもった国役普請制度「濃州国法」が成立し、近世を通じて運用・実施されました。 この濃州国法の基盤を整備したのが、岡田将監善同・善政親子です。 治水事業に貢献した、将監父子 尾張に生まれた岡田将監善同は、関ケ原の合戦の武功により、美濃国に5000石を与えられました。同時に、美濃国奉行大久保石見守長安の代官を勤め、長安の死後、元和2年(1616)には美濃国奉行となり、農民保護政策や治水事業に専念しています。 善同の名が、歴史の表舞台にあらわれるのは、慶長13年(1608)のこと。尾張藩の御囲堤の築堤の際、尾張側の伊奈備前守忠次の名と並び、美濃側の奉行として工事を指揮しています。善同は寛永6年(1629)、74才で没しますが、その遺志は、二男の善政に受け継がれました。 寛永8年(1631)、27歳で父の職を継いだ善政は、洪水の復旧工事に力を注ぎます。工事は巨額の費用と莫大な労力を要しますが、善政は、幕府領、私領の隔てなく工事を進めさせました。慶安3年(1650)の大洪水に際しては、笠町(現在の岐阜県笠松町)に休息所を設けて復旧にあたり、この休息所が後の笠松陣屋となり、幕末まで美濃郡代治世の中心となりました。 こうした治水の功労を認められ、万治3年(1660)、幕府勘定頭に抜擢され、幕府の財政・民政の要職につきました。善政は延宝5年(1677)、73歳で没しています。 |
![]() 岡田将監善同 永禄元年(1558)〜寛永6年(1629) ![]() 岡田将監善政 慶長10年(1605)〜延宝5年(1677) |
農民の負担を軽減した濃州国法 |
治水事業に徴発される人足は、村々に一定の割合で課せられており、大きな負担となっていました。こうした負担を軽減するための夫役=実人足の代銀制が、美濃独自の濃州国法です。 濃州国法の特長は、1間を6尺5寸とした点、人足役を普請所への遠近によって人足の負担の差を認めたこと、さらに人足負担に替えて工事資材の納入を許可した代人足制を認めたことなどです。 農民の負担を軽減した濃州国法は、美濃全域にわたる治水現場を歩き、その過酷な現状を体感していた将監父子が、実感に基づいて確立した最良の国法といえましょう。 将監国法といわれた治水制度は、明治に至るまで、美濃の治水制度の基盤となりました。 |
参考文献:「木曽三川流域誌」建設省 |
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