木曽三川治水偉人伝
内藤十左衛門(ナイトウジュウザエモン)
『有能な治水技術者・内藤十左衛門』

自害の顛末 数少ない幕府方の殉職者
 宝暦治水は近世治水史の中でも、画期的な治水事業です。その工事区域は木曽三川下流域のほぼ全域に及び、80余名にものぼる犠牲者はその難事業のほどを物語っています。
 この多数の犠牲者を死に追いやった原因の一つとして、地元民や幕府が薩摩藩士に非協力的だった点が上げられます。この工事の性格自体が、薩摩藩の御手伝普請、いわゆる、工事資金と労力を提供させ、南海の雄である薩摩藩の勢力を弱体化させる目的にあったため、このような多くの犠牲者に結果したといえます。薩摩藩筆頭家老であり、宝暦治水を指揮した平田靭負の自害も、その背景にある政治的な目論見を表しているといえましょう。薩摩藩の莫大な犠牲をもって工事は完成しています。
 しかし、実質的な工事責任者は木曽三川の治水技術に精通した水行奉行、高木三家でした。旗本として美濃国に知行を与えられた高木家は、西家、東家、北家の三家に分かれていたため、高木三家と呼ばれています。この中で西高木家の家臣、内藤十左衛門は、宝暦治水で自刃して果てた幕府側の犠牲者の一人です。
 宝暦治水のように大規模な工事は、高木家がこれまでかかえてきた役人では不足であり、治水技術に長けた有能な人材が必要とされました。こうした状況下、高木家に雇い入れられたのが、内藤十左衛門でした。

当主に類が及ぶのを恐れた覚悟の自害
 西高木家当主、高木新兵衛が初めて内藤十左衛門と会見したのは、宝暦4年(1754)2月13日のことでした。高木家が宝暦普請御用を命ぜられていることを知った同年1月8日から、わずか1か月後のことでした。会見に臨んだ内藤十左衛門を「高木家文書」は書画の素養もあると記しており、工事にあたって普請絵図を作成することも可能だったと考えられます。
 この内藤十左衛門の居村は、本巣郡十五条村(現岐阜県巣南町)で、多くの親戚が甲斐国にいたと伝えられています。甲斐は甲州流の治水技術で有名な国です。このことからも、内藤十左衛門の治水技術は甲州流の可能性があったと想起できましょう。宝暦治水の中でも第二期の工事においては、石の利用法が大きな鍵となっていますが、甲州流は石の利用法に優れた治水技術です。もしも、内藤十左衛門が甲州流の流れを汲んでいたとしたら、宝暦治水の普請監督にはうってつけの人選でした。
 普請監督として内藤十左衛門が派遣されたのは、四つに分かれた工区のうち二之手と呼ばれた区域です。海面に突き出した木曽川堤防の改修などが彼の任務でした。この海面での工事は他の区域と同様、難工事の一つ。工事に全力を傾けていた内藤十左衛門は宝暦4年4月21日、宿所としていた農家で自害して果てました。享年39歳でした。
 なぜ、働き盛りの内藤十左衛門が死に急いでしまったのか。なぜ、工事の戦列から離れな ければならかなったのか。その理由に、地元側として工事を手伝っていた庄屋の与次兵衛 との折り合いの悪さが伝えられています。「与次兵衛が十左衛門の指示通りに働かなかっ たため、工事にうまくいかない所ができた。これを十左衛門の手抜かりだとして、幕府から高木家にご沙汰があったとしたら申し訳ない。死をもって責任をとる」というのが、自害の真相だとされています。


十左衛門顕彰碑

十左衛門の墓所・霊松院

■参考文献
「宝暦と内藤十左衛門」笹本正治(『中部図書館学会誌』23巻2・3合併号
 
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