木曽三川治水偉人伝
高木新兵衛(タカギシンベエ)
『宝暦治水を陣頭指揮した幕臣、高木新兵衛』

治水技術に精通した旗本・高木家
 水行奉行高木新兵衛は、近世史上稀にみる難工事・宝暦治水の監督者の一人です。宝暦治水といえば、平田靭負を総奉行とする薩摩義士の偉業が余りに有名ですが、実はその実質的な遂行者は高木新兵衛。幕府や笠松郡代とともに、木曽・長良・揖斐の木曽三川の治水事業を実施した工事監督責任者の一人です。 宝暦治水とは、江戸時代中期、木曽三川の分流をめざした工事です。木曽三川下流域で乱流を繰り返す洪水常習地帯の洪水被害を防ぐため、江戸幕府は木曽三川の分流を計画しています。
 そもそも高木家は、美濃石津郡の多良(たら)に在住を許された旗本です。もとは、同郡の駒野・今尾辺りの在地領主で、戦国期には、土岐氏、斉藤氏に属していましたが、後、織田信長に従い、文禄4年(1595)には徳川氏に召し抱えられました。美濃国に知行を与えられたのは関ケ原の合戦以降のこと。以後、高木家は、西家(2300石)東家(1000石)北家(1000石)でそれぞれの知行地を支配。旗本といえども、参勤交代を求められるほどの格式を与えられ、参勤交代は三家が3年に1度行っていました。
 高木家が川通掛あるいは水行奉行といった常置の役に任じられ、笠松郡代と並んで河川管理と治水工事に監督・統制権をもってのぞむのは、宝永2年(1705)の、いわゆる大取払い普請以降のこと。高木家が幕臣であること、そしてこの地の土着領主であり治水技術に精通していたことが、水行奉行という重要な任務就任の大きな理由だと考えられています。

宝暦治水、一之手工事の竣工に奔走
 多良西高木家の当主、高木新兵衛が宝暦治水が計画され、自分たちが普請御用を命じられていることを知ったのは、宝暦4年(1754)1月8日のこと。翌月には江戸留守居役より正式に濃州・勢州・尾州川々普請御用が命じられました。工事の着工は宝暦4年2月27日。そのわずか1か月前の任命ですから、高木家の当惑ぶりは押して知るべしでしょう。2月23日になると、高木新兵衛は笠松陣屋へ出立、27日には宝暦治水一之手工事の本拠地、前野村へ到着しました。この日こそ、普請の御鍬始めがなされ、宝暦治水が始まったその日。これは、高木家が川通掛御用が命じられたという第一報を得てから、わずか46日後ののことでした。
 高木家としては、宝暦3年に普請所検分に立ち会う中で、近々大規模な治水工事が行われるであろうという予測はしていたのでしょう。しかし、宝暦4年の狼狽ぶりからすると、普請がこのように早く始まるとは考えていなかったようです。御用を命じられた高木家が当面急いで用意しなければならなかったのが、実際に工事を監督することができる人材でした。高木家がこれまで抱えてきた役人の人数だけでは足りないほど、大規模な工事だったからです。しかも、有能な人物を、極短期間に見つけ出さなければなりませんでした。こうした状況の中で、高木新兵衛が雇ったのが、後に幕府方で唯一自害し内藤十左衛門義厚でした。
 高木新兵衛は、宝暦治水、四つの工句のうち、一之手工事を指揮。近世史上稀にみる難事業の竣工に尽力しています。

■参考文献
「宝暦と内藤十左衛門」笹本正治(『中部図書館学会誌』23巻2・3合併号
「木曽三川〜その流域と河川技術」建設省
 
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