木曽三川治水偉人伝
舛屋伊兵衛(ますやいへえ)[岐阜県大垣市上石津町出身《宝暦5年歿》]
宝暦治水濁流の人柱
 舛屋伊兵衛は、岐阜県養老郡多良(現在の大垣市上石津町多良)の生まれ。
 江戸時代を通じて多良は、幕府の水行奉行高木家の支配下にありました。高木家には、西高木家、東高木家、北高木家の3家があり、世襲で木曽川水系の治水事業を司っていました。 舛屋伊兵衛はゆえあって高木内膳(東高木家)江戸屋敷に近い、神田紺屋町に住んでおり、このころから高木家になんらかの形で仕えていたのでしょう。高木家が、宝暦治水の水行奉行として、普請監督に着任すると、伊兵衛は高木内膳の家来となり、治水工事にあたるようになりました。このことからみても、伊兵衛は治水に関する技術をもった人物であり、と同時に舛屋という屋号の御用達商人だったと考えられます。
 宝暦4年(1754)、高木内膳とともに美濃に帰国した伊兵衛は、治水工事に参加。宝暦治水は、木曽三川の抜本的な治水事業であると同時に、薩摩藩の御手伝普請として労力も資金も提供させ、南国の雄藩といわれた薩摩藩の勢力をそぐことを目的としていました。こうした背景から、工事の当初より幕府役人と薩摩藩士のあつれきは深刻な問題で、伊兵衛は、薩摩藩士と幕府の間に入って苦しむ主君、高木内膳の姿に胸を痛めていました。それに加え、遅々として進まぬ工事の責任をとって、薩摩藩士が次々と自害。こうした悲惨な状況のなかで、伊兵衛は、殉死する覚悟を決めていったのでしょう。

 宝暦治水のなかでも、最も難事業とされた大榑川の洗堰工事が決定すると、伊兵衛は、難工事の克服を願いながら、波浪さかまく濁流に身を投げ、人柱となったのです。数日後、発見された伊兵衛の遺体は、主君の高木内膳によって輪之内町の円楽寺に手厚く葬られました。

父を失った娘の悲話は里うたとともに、今も伝えられ涙をそそります。

口ゆえに父は長良の人柱きじも啼かずばうたれまい

円楽寺境内の墓所

■参考文献
「宝暦治水濁流の人柱」上石津町教育委員会
 
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