ふじあざみ66号(1)
ふじあざみ タイトル
宝永噴火の様子を描いた古絵図
宝永噴火の様子を描いた古絵図(滝口文夫氏所蔵)
宝永の大噴火
 富士山は平安時代にあたる9~11世紀には大量の溶岩を流出するような活動を続けていました。そして江戸中期1707年(宝永4年)突然大噴火を引き起こしました。

噴火の推移

 宝永噴火の49日前、「宝永地震」(M8.6)が1707年10月28日発生し、東海地方から四国にかけて大災害をもたらしました。翌29日には富士宮付近を震央とする最大余震が発生、富士宮では本震よりも強い揺れに大きな被害を受けました。
 同年の12月に入り富士山中で小規模の群発地震が発生していました。12月15日~16日未明にかけて群発地震の規模が拡大してゆき、16日午前10時ごろ富士山南東斜面五合目付近で大噴火が始まりました。
 噴煙は成層圏に達し、偏西風にあおられ江戸上空まで達し、爆発的噴火にともなう空振が下伊那から江戸まで広い範囲で感じられ、人々を大きな恐怖に陥れました。東麓の村々には火山れき、火山灰が降り注ぎ、高熱の軽石により火事も発生してゆきました。空は闇に包まれ、火山雷がとどろき、灰白色の降灰が始まり、家も畑もたちまちその下に埋まってしまいました。
 16日午後3時ころ一時小康状態になるが夕方からまた噴火が激しくなり、火口に上る火柱と赤熱した火山弾の飛散がはっきりと見え、人々にさらに強い恐怖心を与えました。
 富士山から100km離れた江戸にも火山灰が降り、昼でも暗夜のようになったといいます。

噴火の被害

 宝永の噴火は富士山南東斜面からの側噴火だったため、南東から東の山麓に点在する駿東郡には直径40~50cmもの火山れきが激しく降り注ぎ、直撃を受けた家は炎上し、75戸のうち37戸が焼失、残りの家もすべて倒壊してしまいました。
 壊滅した須走郡の他にも、大御神村、深沢村、用沢村などでは、たちまち家も田畑も噴出物で埋まってしまい、住民は命からがら避難してゆくのが精一杯でした。噴火は1月1日未明まで16日間続き、この間50あまりの集落が噴煙物の下に埋没してしまいました。
 被災地が完全に復旧するまで30年以上もの歳月を要したと言われています。

宝永噴火の想定降灰分布
(富士山ハザードマップ検討委員会)
宝永噴火の想定降灰分布図
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