+++ ふじあざみ61号(2)  +++
 
本門寺用水開発の由来
 富天正10年(1582)3月、徳川家康は武田勝頼との戦いの際、北山に宿泊した折に、そこで北山本門寺貫首日出上人と出会い、家康は上人の「日出」という名に武運ありと感じ、御本尊を貸り受けました。  戦いの最中、武田方の撃った弾丸が御本尊の花押に当たり、家康は難を免れる事が出来ました。  同年5月、武田との戦いを制した家康は御本尊返却の折、日出上人に「所望する物があれば何なりと申し出られよ」と感謝の気持ちを表しました。日出上人は、当地が水に恵まれず生活が苦しいことを訴え、用水路の開発を請願しました。家康は直ちに井出甚之助正次に用水路を通 すよう命じ、同年8月1日に工事を始め、内野横手沢より堀幅は3間(約5.4m)・全長2里(7.9km)余りの用水が、11月15日には完成しました。

 


本門寺用水の恵み
 本門寺用水は、※1天水場の村々を水の豊かな村々へと変え、生産性の低い畑作地帯を水田稲作地へ変えるなど、様々な地域の可能性を引き出してきました。さらには、用水に掛けられた水車の動力によって社会生活や食文化の変革をもたらし、本門寺用水流域の集落規模の拡大・生活水準の向上などに大きく貢献しました。  


富士山の砂防工事と 本門寺用水
 富士山には多数の浸食谷があり、「八百八沢」と呼ばれ、その最大のものが大沢川(無間ヶ谷沢)で、その浸食は山頂付近の大崩壊地「大沢崩れ」から始まっています。富士山の沢は、ほとんどが涸沢ですが、一旦大雨が降ると土石流が発生する危険な沢です。本門寺用水の維持管理は、大沢川(潤井川)・猪の窪川・邯鄲沢・竹沢・大久保沢等に発生する激しい土石流との戦いでもありました。  昭和44年から国土交通省により大沢川をはじめとして、富士山南西山麓の砂防事業が進められ、今では土石流は砂防えん堤や、沈砂地、遊砂地で受け止められ、下流への被害は少なくなってきました。平成12年に大沢崩れから発生した土石流では、下流の砂防施設で観測史上最大の28万m3もの土砂をおさえました。  麓の安全が確保されてきたことにより、本門寺用水では長年苦労してきた土石流による※2掛樋や※3埋樋の破損や、用水路を埋める土砂などの被害が少なくなってきました。さらに、潤井川流路工の完成によって、広い河原を渡さなくてはならない本門寺用水の難所、「上井出河原(潤井川)」の河道が定まり、堅固なサイホン(埋樋)が川底に敷設されました。そして、猪の窪川も沈砂地工や河道改修工事など一連の砂防工事に伴い、埋樋が改修されました。  このように近年の砂防工事の進展によって、本門寺用水は土石流災害が減少したのみでなく、埋樋の改修工事がなされ、用水の安全性が向上しました。


本門寺用水顕彰祭
 本門寺用水顕彰祭は、「本門寺用水ができ、地域が発展し、今日の我々の生活がある」ということを感謝する為の記念式典で50年に1回行われています。  北山用水運営協力委員会は、平成18年9月3日(土)、北山本門寺において、本門寺用水50年顕彰祭の記念式典を行いました。  当日は天候にも恵まれ、地元関係者、地元小中学生など200名以上の方々が出席しました。  本門寺執事長による法要に始まり、本門寺伝承の奉納太鼓を起源とする重須孝行太鼓の演奏や、用水記念碑の除幕式が行われました。  式典後には、本門寺用水50年顕彰祭の執り行われた意味を次代を担う地元小中学生にわかりやすく説明し、「次の50年後もどうか引き継いで開催して下さい」との心のこもった挨拶もありました。