木曽三川治水偉人伝
西田喜兵衛(にしだきへえ)[三重県桑名市多度町出身]
宝暦治水に協力を惜しまなかった西田家の祖先
 西田家は代々、庄屋を務める名家です。明治生まれの喜兵衛は、11代当主。近世最大級の難事業、宝暦改修(1734〜35)の顕彰に生涯を捧げ、「宝暦治水之碑」建立に尽力しました。
 喜兵衛の生まれた桑名郡戸津村(現在の桑名市)は、宝暦治水が実施された揖斐川沿岸の村。この改修は薩摩藩による御手伝普請。洪水が多発する木曽三川下流域の抜本的な改修を目的に、広範な地域で改修事業が行なわれました。
 当時の西田家当主は桑名藩松平家の領分桑名郡北部地方の代官職であったことから、工事に深い関心を寄せ、自ら進んで住居を薩摩藩士の宿所に提供し、藩士数名のほか、足軽、下人合わせて20余名を宿泊させるなど、協力を惜しみませんでした。
 また、この工事が関係の村々の利害に関するために、藩士たちと工事現場に赴き、土地不案内な総奉行平田靱負(ヒラタユキエ)の良き相談顧問方として協議にも参与助言。昼夜兼行で働く藩士の安全と、一日も早い工事の竣工を祈念して、朝な夕な霊験あらたかな多度神社に参拝することが、喜兵衛の日課でもありました。
 当主は、宝暦五年、工事が完成し検分が終わると同時に切腹して果てた総奉行平田靱負をはじめ、工事の途中で自刃して果てた藩士たちの言動や、自殺した原因の顛末を丹念に書き留め、「薩摩藩の恩、忘るべからず」とその記録を子孫に遺しています。この記録は、代々、西田家の家宝として秘蔵されましたが、封建の世という江戸時代の時勢から公表されることはありませんでした。
 しかし残念なことに、家宝は明治9年の伊勢暴動の災禍に遭って焼失しています。この事実が、11代西田喜兵衛の、義士顕彰、治水碑建設の発願となったことはいうまでもありません。

時の総理大臣を招き、盛大に行なわれた除幕式
 かねてより義士の事蹟顕彰を志した西田喜兵衛は、長年にわたり家業を賭して事蹟調査と顕彰に奔走しました。そうしたなかで、改修工事による地元住民への恩恵の深さが明らかにされると、喜兵衛は記念碑建設に精力を傾けることに。上京を幾十回も重ね、やっと記念碑の建設が実現しました。
 碑の除幕式は木曽三川分流がほぼ完成した明治33年4月、完成を祝う祝賀式の後、時の総理大臣山県有朋、内務大臣西郷従道のほか、数多くの高官の参列を得て厳粛にしかも盛大に挙行されました。
 碑文は宝暦治水の偉業と薩摩藩士の辛酸を語り継ぎ、碑裏面には八十余名にのぼる薩摩義士の名を記しています。

宝暦治水碑建設有志之碑


宝暦治水碑

■参考文献 多度町史
 
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