木曽三川治水偉人伝
平田靱負正輔(ヒラタユキエタダスケ)[宝永元年〜宝暦5年1704〜1755]
『自らの命を引きかえに宝暦治水を成し遂げた平田靱負、その偉業』

悲壮の覚悟で幕命を受託
 平田靱負は、薩摩藩の家老です。宝暦治水の総奉行として、わが国治水史上最大の難事業といわれた工事を指揮。工事終了後の宝暦5年5月25日早朝、工事により多くの犠牲者を出したこと、巨額の工事費を費やし薩摩藩を疲弊させたことの責任をとり、自らの手で生涯を終えました。
 そもそも薩摩藩は、外様藩。関ケ原の合戦では豊臣方に参戦するなど、幕府を脅かす南海の雄藩でした。幕府は宝暦治水のような大事業を命じ、莫大な財政負担を強いることで薩摩藩の勢力の弱体化を図ったのでした。
 宝暦3年、宝暦治水を命じられた薩摩藩では、この工事を引き受けるか否かで紛糾。幕府との開戦論議さえ起こりました。この時、平田靱負は「幕府と戦えば、薩摩は戦場となり、罪もない子どもや百姓までもが命を落とす。ならばこの治水事業を引き受け、異国といえど美濃の民百姓を救うことこそ、薩摩隼人の誉れを後世に知らしめ、御家安泰の基となろう」と、いきりたつ家臣を説得。幕命を受けることとなりました。この時すでに、平田靱負は死を覚悟していたのでしょうか。
 工事の前でさえ、多額の借金を抱えていた薩摩藩は、さらなる財政苦を背負い込むことになりました。

遠い異国の地で無念の死を遂げた薩摩義士
 宝暦4年1月、総奉行平田靱負は947名を率いて故国を出立。途中大阪に立ち寄り工事費数万両を調達した後、美濃の大牧村(現在の岐阜県養老町内)鬼頭兵内宅を本小屋とし、同年2月より工事は始まりました。
 しかし、美濃のように大河のない薩摩藩士にとって、目前を流れる木曽三川はまるで海。刀を持つ手を鍬にかえ、暴れ狂う濁流に向かったのでした。しかも、薩摩藩士を待ち受けていたのは幕府による冷遇。「食事は一汁一菜、酒や魚は一切禁止」という日常的なことから、町方請負禁止などの工事上の難題にいたるまで、さまざまな悪条件のもとで、工事は行われたのでした。
 工事では、薩摩藩士の死者87名、うち、自刃した者54名という犠牲者が続出。洪水による竣工部の被災、幕命による度重なる計画変更、追加工事などの過酷な条件を乗り越え、宝暦5年5月、工事は完成しました。その成果は、幕臣からも賞賛を受けるほど、見事な出来栄えでした。

 しかし、総費用約40万両(現在の300億円相当)もの借財と多くの犠牲を藩に負わせた平田靱負は、辞世の句を残して自害。享年52歳でした。

「住みなれし里も今更名残にて 立ちぞわづらふ美濃の大牧」

参考文献:「木曽三川流域誌」建設省
 
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