木曽三川治水偉人伝
辻六郎左衛門守参(もりみつ)
木曽川水系に独自の治水機構を樹立
 17世紀の木曽・長良・揖斐三川下流域では、輪中の築造や修復などが盛んに行われ、大河川下流域の新田開発やそれに伴う築堤工事は、農業生産を向上させる一方、新たな治水問題を生起させていました。
 甲斐国出身で幕臣として民政・財政の実務を担当していた辻六郎左衛門守参は、元禄12年(1699)、第7代笠松郡代に抜擢され、復旧工事に努めるとともに、各河川の実情を調査しました。その結果、連年の水害は近年に進めた新田開発と護岸施設によって生じる流水が下流域で停滞したためで、新たなる治水問題であることが分かりました。
 この問題に注目した辻守参は、木曽・長良・揖斐三川流域の広い範囲を対象に治水策を構想。その優れた着眼点と立案能力が、「宝永の大取払」(宝永2年、1705)として結実しています。

 宝永の大取払の工事実施区域は、木曽三川の中流以下全体にわたるもので、広さにおいては、木曽川水系における近世治水工事中、最大規模。工事内容は大取払の名のごとく、流水停滞の原因となる障害物は、藪・立木のみならず、民家までも数十軒を取り払い、それは一つの村が姿を水没するほどの深刻な影響を及ぼす工事でした。しかし、それを敢えて遂行したところに、工事にかける辻守参の意欲と自信のほどをうかがいしることができます。
 またこの時期は、8代将軍吉宗による江戸幕府の全盛期。幕府が全大名・旗本に君臨して強権を行使できた条件が、大規模な工事を可能とさせたことも見逃せません。

 治水史上の辻守参の功績はもう一つ、工事の対象地域の河川管理のために、川通掛(治水技官)を置き、その役に美濃在任の旗本高木氏を任じ、以後、毎年、諸河川を巡視させ河道維持に当たらせたことです。高木氏は後の宝暦治水にも重要な役割を果たすことになりますが、この制度は幕末まで存続。こうした広域の治水策を採用したところは、全国的にも稀であり、木曽川水系独自の治水機構を成立させた辻守参の名は、後世にまで語り継がれています。
 享保3年(1718)、辻守参は、勘定方吟味役に昇進して帰府し、元文3年(1738)に天寿を全うしています。
 著名な「辻六郎左衛門上書」は、自ら民政に携わった経験に基づいて、農政の要点を記したもので、後世、農政担当者らの座右の書として尊重されました。

辻六郎左衛門の墓碑
(笠松町 伝法寺境内)

 参考文献:「木曽三川流域誌」建設省
 
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