木曽三川治水偉人伝
井沢弥惣兵衛為永(イザワヤソベイタメナガ)
『8代将軍吉宗とともに江戸の繁栄を築いた近世土木の祖』

日本最古の閘門式運河を築造
 井沢惣兵衛為永は、紀伊国出身の治水家。28歳で紀伊藩に仕え、水利、新田開発事業を担当しています。この折り、土木技術の練達者といわれた大畑才蔵から水利技術を学びました。享保元年(1716)、紀伊藩主徳川吉宗が8代将軍に就任すると幕臣に。当時60歳だった為永は勘定所に登用されました。数理に精通した為永は以後15年間、諸川の改修、新田開発に尽力。享保の改革における治水・農政面で大きな役割を果たしました。
 為永は関東の大農業用水、武蔵国の見沼代用水などを建設しており、その代表実績、武蔵国の見沼通船堀は日本最古の閘門式運河。世界的に有名なパナマ運河に先立つこと約150年の享保16年(1731)、徳川幕府の命により、物資輸送を目的として開かれました。この遺跡は近世の土木技術、流通を考える上で貴重なものとして国の史跡に指定されています。

木曽三川分流構想を立案
 享保20年(1735)8月21日、美濃群代を命ぜられた為永は、笠松陣屋に着任。以後2年間美濃郡代を兼務しますが、為永が美濃国に滞在したのはわずか5か月。その短い滞在期間の中で、為永は木曽三川をはじめ各河川を精力的に歩きまわり、綿密な三川分流計画を立案し、江戸幕府に建言しています。幕府では、ただちにこれを実施するにいたりませんでしたが、為永の没後、16年を経た宝暦治水工事は、為永が美濃郡代在任中に作成した計画を基礎に実施されたものとされています。
 為永の河川技術は、河川の流路をなるべく直流とし、堅固な堤防を築いて水が越えないようにし、また、堤防を保護するための護岸、水制を設置するものでした。この考え方はわが国の河川計画の起源となっており、こうし実績から為永は近世土木の祖と呼ばれています。
 為永は美濃郡代辞任の翌年(元文3年・1738)、85歳で天寿をまっとう。その墓は東京都千代田区麹町の心法寺にあります。

参考文献:「木曽三川流域誌」建設省
 
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