木曽三川治水偉人伝
金森吉次郎(かなもりきちじろう)[元治元年〜昭和5年1864〜1930]
治水のもとは、治山にあり
 金森吉次郎は、大垣輪中の魚屋町(現岐阜県大垣市魚屋町)に生まれました。父金四郎は篤志家として外国貿易や製糸業を手がけた大垣屈指の財産家です。この資産がやがて、彼の治山治水事業や教育、公共事業などに情熱を傾ける経済的土台となりました。彼を治水事業に導いたのはある新聞記事。私財を投げうって独力で天龍川の堤防を築き、人々を救うという金原明善の記事に感銘を受けたのでした。吉次郎の少年時代、彼が生まれた西濃地方では、毎年のように洪水が発生し、その惨状を目のあたりにしたことや、父金四郎が水害の救済や治水に取り組んだ影響を受けたからだと思われます。
 明治21年、揖斐川の洪水で大垣輪中が一面湖と化した時、吉次郎は25歳。人々の推挙により救済委員となったことが、彼が治水事業に関わる始まりでした。以後、県会議員、大垣町会議員、大垣輪中水利土功会委員などを歴任。明治24年には金原明善と出会があり、「治水のもとは、治山である」が持論であった吉次郎は、明善と激励しあい、意を一層固く取り組みました。この年、発生した濃尾大震災は内陸型地震としては最大級。彼は明善とともに根尾谷(岐阜県根尾村)の山腹崩壊の実情を撮影してその惨状を皇室や政府・県に訴えその結果生まれた森林法が実施され、岐阜県下5万2000haの植林が行なわれました。
 明治29年9月には再び大洪水が西濃地方を襲い、大垣天守閣下部まで浸水した時には、激しい風雨のなか、一命を捨てる覚悟で村人を集め堤防を切り割り、輪中内にたまっていた水を揖斐川へ放出しました。この結果、8000戸の家屋と4万人の人命を救うことに。大正12年には、洪水の恐ろしさを広く世間に知らせようと、明治29年の浸水位を礎石に刻み洪水標としました。これを、今も「明治二九年大洪水点」として大垣城の一角にみることができます。

悲願は木曽三川の大改修
 吉次郎は水害の根本解消のため、木曽三川改修の実現を生涯の目標として治水と山林事業に全力を挙げました。また、歴史に埋もれた治水の先人、平田靭負ら薩摩義士の事跡を掘り起こし、千本松原に義士の記念碑を建設したのをはじめ、薩摩藩主をはじめとした治水神社の建立を企画して、長くその功績をたたえるなど(神社は昭和13年建立)、義士たちを「この堤は君の肉、この川は君の血」とうたい、その業績を広く伝えることに貢献しました。
 吉次郎は、父から譲り受けた全財産と一生を治水のために使い尽くし、木曽川下流・上流改修工事を実現させていきました。昭和5年、吉次郎は67歳で病没。
 大正12年に建設された吉次郎の銅像も、第2次世界大戦で回収されていましたが、昭和29年、大垣輪中水害予防組合が中心となって大垣公園の一角に再建されました。

■参考文献『木曽三川流域誌』建設省
『輪中と治水』岐阜県博物館
 
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