ふじあざみ55号(2)
基礎知識 足和田土石流災害 土石流により生活基盤を破壊されたねんば、西湖地区は集団移転を決断
 富士山北麓に位置する旧足和田村(現在の富士河口湖町)の西湖湖畔には、かつて根場地区と西湖地区という2つの集落がありました。この2つの集落は、昭和41年9月25日、台風26号の豪雨により発生した土石流によって壊滅的な被害を受け、残された住民は集落ごと住み慣れた土地を離れざるをえませんでした。今回は、この「足和田土石流災害」について取り上げます。

■災害状況

 昭和41年9月25日、台風24号の影響による連日の雨で旧足和田村一帯の雨量は270mmを記録し、山間部の地盤が緩んでいました。そこへ更に台風26号の影響による時間雨量100mmの記録的な豪雨が降った結果、山腹が崩壊し土石流が発生しました。
 本沢川、三沢川で発生した土石流は、それぞれ根場地区、西湖地区の中心部を直撃し、その結果、根場地区では人口235名のうち死者・行方不明者63名、西湖地区では人口513名のうち死者31名をという大きな災害が発生しました。

写真 土石流で崩壊した根場地区
土石流で崩壊した根場地区

■困難をきわめた捜索活動

 集落全体は、一瞬のうちに深い土砂に埋め尽くされました。ほとんどの住民が住む家を失い、親、兄弟姉妹、子供が見つからない状態で、更に泥まみれの重傷者も続出し救助活動は困難をきわめ、あせり、疲労、不安が募るばかりでした。
 地元の住民は誰もがなんらかの形で被害を受けており、救出活動を行える状態ではありませんでした。そのような状況下、自衛隊による捜索活動は10月7日まで、延べ16,000人以上の人員を動員して行われました。
 悲しいことに集落から1kmも下流の西湖の中で見つかった遺体もありました。何頭もの牛が湖の中で泥に埋まりながら死んでいました。連日湖面から湖水の中までくまなく捜索が行われましたが、結局根場地区の13名の方々を見つける事が出来ませんでした。

写真 救援捜索活動(根場地区)
救援捜索活動(根場地区)

■集団移転を決断

 災害から1年後の昭和42年9月25日、根場・西湖地区それぞれで慰霊祭がとりおこなわれ、これを区切りとして、復興へ本格的に取り組み始めました。
 根場・西湖地区はもともと養蚕・林業・酪農で生計を立てていましたが、住宅・耕地・牛・全ての生活基盤を奪われてしまい、新しく生活基盤をみつけなければならない状況に置かれ、ほとんどの人は裸一貫の再出発となりました。
 両地区はそれぞれ何度も話し合い、「今まで住んでいた場所は、家を建てられるほど整地されていない」、「再度同じ災害に遭うかもしれない危険な場所に住むのは怖いから、安全な場所に移りたい」、と言う意見が多く、集団移転することを決断しました。
根場地区は、これまでの集落のすぐ南の青木ヶ原の溶岩台地に、一方、西湖地区は湖の対岸に、それぞれ全世帯が移転することになりました。
 移転先では恵まれた自然環境を生かした民宿村として新たにスタートし、復興に向けて歩み始めました。

写真 土石流で崩壊した西湖地区
土石流で崩壊した西湖地区

西湖周辺の垂直航空写真
西湖周辺の垂直航空写真

■足和田土石流災害の教訓

 富士山周辺の土石流危険渓流※は、大きく2種類に分類できます。1つは富士山を囲む山々に多く存在する流域面積が小さく勾配が急な渓流。もう1つは富士山の山腹に存在する流域面積が大きく勾配がやや緩やかな渓流です。足和田土石流災害は前者の渓流で発生しました。一方、後者の渓流の代表的なものは、大沢崩れを有する大沢川などです。
 土石流災害は、根場地区や西湖地区に限った特殊な現象ではなく、富士山周辺のどこにでも発生する可能性がある現象です。普段から土石流危険渓流の位置を把握し、早めに確実な避難を行うためのハザードマップや情報伝達網の整備、減災のための砂防設備が必要です。


※土石流危険渓流

 土石流危険渓流とは、土石流の発生の危険性があり、1戸以上の人家(人家が0戸でも官公署・学校・病院・駅・旅館・発電所等のある場所を含む)に被害を生ずるおそれがある渓流をいう。
 なお、土石流危険渓流以外の土石流が発生および流下する恐れのある区間についても、準用することができる。

参考資料:「砂防と治水157号」(社)全国治水砂防協会発行
写真提供:富士河口湖町
〔1〕 2 〔3〕 〔4〕