ふじあざみ 第53号(1)
ふじあざみ53号

写真:御殿場市と富士山(左側中腹が宝永山火口)
大噴火のすさまじさを今に残す「宝永山」の姿
■火山弾や火山灰が大量に噴出
 宝永4年(西暦1707)11月23日、富士山南東側の中腹で大爆発が起こりました。これが宝永の大噴火です。噴火地点に近い駿東郡印野村(現在の御殿場市)の当時の様子を、地元に伝わる古文書は次のように伝えています。「午前8時ごろ、山麓に大きな地鳴りの音が響き、大地が揺れ動いたかと思うと突然、印野村の上手で大爆発があり、それと同時に火柱と噴煙がうずを巻きながら噴き上がった。しばらくすると大量の石や砂が降下し始め、あたり一面は暗闇のようになった。」
■広い範囲で甚大な被害
 宝永の噴火は溶岩をほとんど流出せず、火山弾や火山灰を多量に噴出しました。特に麓の山村は大きな被害に見舞われ、登山口のひとつ須走村(現在の駿東郡小山町)では、全75戸数のうち埋没・倒壊した家38戸、焼けた家37戸と、ひとつの村全体が被災するという状況でした。火山灰は須走で2.6m、小山町で1m、御殿場で0.7mも堆積しました。
 火山灰は小田原、大磯、戸塚、川崎、そして遠くは江戸にまでも降り、時の六代将軍徳川家宣の学問の師新井白石は、自伝の中で「江戸でも地震がひどく、雷のような音が響き、火山灰が地面をおおい、草も木も真っ白になっている。降灰のため日中でも暗く、灯をつけて進講(学問をおしえること)しなければならないほどだ」と書いています。
 また、御殿場の七つの村の被災から約1年後の様子をまとめた資料によると、人口2,070人のうち、死者または他村へ避難した人728人、飢えのため救済を求めている人1,109人、運良く被災せずに自力で生活できる人233人という記録も残っています。
写真:宝永山火口 ■富士山噴火に備えて
 その後、噴火は11月26日の夕方まで続き、12月8日夜半には噴煙もおさまったということです。この宝永の大噴火の様子を現在に残すように、第一火口の縁に隆起したのが写真の宝永山です。宝永の大噴火を最後に、富士山は現在まで約300年間その活動を休止していますが、活火山富士山と共存していくために、これからのまちづくりに関係の自治体が配付する富士山火山防災マップを有効に活用していくことが大切です。
●参考文献:国土交通省 中部地方整備局 富士砂防事務所発行「富士山の自然と砂防」


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