ふじあざみ 第51号(3)


富士山に暮らす/江戸時代の庶民の心をとらえた「富士講」 江戸時代に庶民の間に広まった富士山信仰。その背景には「御師(おんし)」と呼ばれる信仰の指導者を中心とした団体で富士山参詣を行う「富士講(ふじこう)」がありました。さらに、様々な事情により登山ができない人々のために擬似参拝ができる「富士塚」が造られ、信仰に拍車をかけたのです。
■富士山信仰の歴史
 富士山は昔から火を支配する神様の住む山としてあがめられてきました。そして、鎌倉時代には山岳修験者と庶民の富士信仰が結びついて登山修行を行う山へと変わっていきました。やがて室町時代に入ると富士信仰はさらに盛んになり、江戸時代には「富士講」という団体ができ、人々は富士山参詣を行うようになります。江戸末期には「江戸八百八講」といわれるほどたくさんの富士講の団体ができました。
■富士塚で模擬登山
 そのような中、江戸の町には、富士山に登ることが禁じられていた女性や、長旅が困難な人たちも模擬富士参詣ができるように「富士塚」と呼ばれる高さ数メートルのミニ富士山が多く造られました。この小さな富士塚登山が江戸の町人の間で大流行したということです。
■富士講を広めた御師
 夏になると富士講の信者たちは富士登山のために河口や吉田へやってきます。この信者たちの世話や指導をしたのが「御師」と呼ばれる人たちです。御師は富士山信仰の指導者で、宿泊所を提供したり、富士講を広める役割も持っていました。そして彼らの生活は、自らが経営する宿泊所での信者からの宿泊料や通行料、おはらい料、お札、お布施などの収入によって保たれていました。御師と信者は師匠と弟子の関係にあり、一度縁を結ぶと信者は他の御師の宿泊所に泊まることはありません。御師にとってはできるだけたくさんの信者を自分の弟子にすることが大切で、シーズンオフには江戸を中心に「講社まわり」といわれる弟子の勧誘にまわったということです。
 非常に栄えた富士講と御師ですが、文明開化以後の新しい社会とともに徐々に衰退していきました。かつての御師の家は、今は民宿などに生まれ変わり、その家の様子や、富士講の歴史を物語る資料、品物などが昔のおもかげを見せています。
模擬参詣を行う様子を描いた絵「深川の富士」
写真:模擬参詣を行う様子を描いた絵
「深川の富士」(「富士の信仰」より)
復元された御師の家
写真:復元された御師の家
(富士吉田市郷土館)


 富士山周辺では古くから富士山に影響を受けた生活が営まれてきました。それを垣間見ることができるのが遺跡の数々。今回は富士宮市で文化財の保護を担当する渡井英誉さんにお話を伺いました。「思い出すのは小学生の頃、方位の勉強のとき富士山は東と教わり、方向を覚えましたが、東京に行ってからは平地ばかりで目標物がなく方向音痴になってしまいました。」と笑顔で語る渡井さん。今では富士のふもとで遺跡と格闘する日々。現在は富士宮の潤井川、富士川近辺の遺跡分布からその動向を検討中だそうです。
■富士宮の遺跡に見る富士山との関係
 富士宮には200近い遺跡があり、その分布状況に富士山とのかかわりが見えるそうです。主に平安以前の遺跡に見られる特徴を伺いました。「新富士溶岩の影響を受けていない平地に遺跡が多いのです。それは、水を通しにくい古富士溶岩と水を通しやすい新富士溶岩の間を水がとおり湧水として湧き出て生活用水が確保できたからと思われます。遺跡の分布に偏りが多いのも富士山溶岩の到達先との関係と思われます。弥生時代中期には、富士宮に集落跡の遺跡が存在しないのは水田依存型の村が中心になったため水田を作りやすい平地に村が移動したと考えられます。しかし後期のある時期を境に山に人が戻ってきます。この時期は登呂遺跡が終了した時期と一致します。具体的な理由は分かりませんが、天変地異か戦が原因ではないかと考えられています。」
 興味深いお話は、さらに続きます。「邪馬台国と同じ時期に富士根地区に丸ヶ谷戸遺跡(まるがいといせき)という古墳が作られていますが、それまで富士宮に大型の古墳はありませんでした。想像ですが、これは邪馬台国から流れてきた人々がこの地で文化を築きあげたのではないかと考えられます。なぜ邪馬台国の人々がこの地に定住したかというと、おそらく富士山を目指して舟で来たと想像できます。そして、この古墳の入り口の延長線上には富士山があり、このお墓の持ち主は、富士山への思い入れが強かったのではと思われます。当時の人々の思想や信仰をあつかうことは、考古学にとって一番難しい領域なんです。」その後、鎌倉時代以降には富士山中に人が進出し始め、江戸時代には用水が整備され、より高地に人が進出します。そして富士山信仰も一般に定着していったと言う、ロマンあふれるお話を語ってくださいました。
丸ヶ谷戸遺跡 ■遺跡保護の課題
 渡井さんの具体的な活動は、何年かごとに実際に歩いて畑や小工事のあとを見て周る「分布調査」と、その調査によって遺跡存在の可能性が発見されれば遺跡の様子を確認する調査、記録として遺跡を保存する発掘調査と作業を進めます。「遺跡・遺物は国民共有の財産なので、いかにそれを保存保護し、より多くの方に見ていただけるかが今後の課題だと思います。」
▲丸ヶ谷戸遺跡
■遺跡は過去からのメッセージ
 最後に、富士山や遺跡とどう向き合っていくべきか伺いました。「各地域の地名や遺跡・古文書には過去からのメッセージが多く含まれています。これらを皆さんと共に大事にしていきたいと思います。そして、富士山の麓に住む我々のその地域にある特色を守りつつ生活していければいいなと思います。」
渡井英誉氏
■プロフィール
渡井 英誉 (わたい ひでよ) 氏
 昭和34年4月3日生まれ。富士宮市教育委員会文化課学芸員。日本考古学協会員。