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富士山周辺では古くから富士山に影響を受けた生活が営まれてきました。それを垣間見ることができるのが遺跡の数々。今回は富士宮市で文化財の保護を担当する渡井英誉さんにお話を伺いました。「思い出すのは小学生の頃、方位の勉強のとき富士山は東と教わり、方向を覚えましたが、東京に行ってからは平地ばかりで目標物がなく方向音痴になってしまいました。」と笑顔で語る渡井さん。今では富士のふもとで遺跡と格闘する日々。現在は富士宮の潤井川、富士川近辺の遺跡分布からその動向を検討中だそうです。 |
■富士宮の遺跡に見る富士山との関係
富士宮には200近い遺跡があり、その分布状況に富士山とのかかわりが見えるそうです。主に平安以前の遺跡に見られる特徴を伺いました。「新富士溶岩の影響を受けていない平地に遺跡が多いのです。それは、水を通しにくい古富士溶岩と水を通しやすい新富士溶岩の間を水がとおり湧水として湧き出て生活用水が確保できたからと思われます。遺跡の分布に偏りが多いのも富士山溶岩の到達先との関係と思われます。弥生時代中期には、富士宮に集落跡の遺跡が存在しないのは水田依存型の村が中心になったため水田を作りやすい平地に村が移動したと考えられます。しかし後期のある時期を境に山に人が戻ってきます。この時期は登呂遺跡が終了した時期と一致します。具体的な理由は分かりませんが、天変地異か戦が原因ではないかと考えられています。」
興味深いお話は、さらに続きます。「邪馬台国と同じ時期に富士根地区に丸ヶ谷戸遺跡(まるがいといせき)という古墳が作られていますが、それまで富士宮に大型の古墳はありませんでした。想像ですが、これは邪馬台国から流れてきた人々がこの地で文化を築きあげたのではないかと考えられます。なぜ邪馬台国の人々がこの地に定住したかというと、おそらく富士山を目指して舟で来たと想像できます。そして、この古墳の入り口の延長線上には富士山があり、このお墓の持ち主は、富士山への思い入れが強かったのではと思われます。当時の人々の思想や信仰をあつかうことは、考古学にとって一番難しい領域なんです。」その後、鎌倉時代以降には富士山中に人が進出し始め、江戸時代には用水が整備され、より高地に人が進出します。そして富士山信仰も一般に定着していったと言う、ロマンあふれるお話を語ってくださいました。 |
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■遺跡保護の課題
渡井さんの具体的な活動は、何年かごとに実際に歩いて畑や小工事のあとを見て周る「分布調査」と、その調査によって遺跡存在の可能性が発見されれば遺跡の様子を確認する調査、記録として遺跡を保存する発掘調査と作業を進めます。「遺跡・遺物は国民共有の財産なので、いかにそれを保存保護し、より多くの方に見ていただけるかが今後の課題だと思います。」 |
▲丸ヶ谷戸遺跡 |
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■遺跡は過去からのメッセージ
最後に、富士山や遺跡とどう向き合っていくべきか伺いました。「各地域の地名や遺跡・古文書には過去からのメッセージが多く含まれています。これらを皆さんと共に大事にしていきたいと思います。そして、富士山の麓に住む我々のその地域にある特色を守りつつ生活していければいいなと思います。」 |
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■プロフィール
渡井 英誉 (わたい ひでよ) 氏
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昭和34年4月3日生まれ。富士宮市教育委員会文化課学芸員。日本考古学協会員。 |
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