ふじあざみ 第51号(2)

富士曼陀羅図に描かれた清見寺/富士山の基礎知識 古来より伝わる「富士曼陀羅図」には当時の人々の富士山信仰に対する思いが見てとれます。図の一部に描かれた「清見寺」の様子から、当時の富士参詣の様子と、関所との関わりを探ってみましょう。
富士曼陀羅図(伝狩野元信・富士山本宮浅間大社) 地図
富士曼陀羅図(清見寺の関所付近拡大)
▲富士曼陀羅図(伝狩野元信・富士山本宮浅間大社) ▲富士曼陀羅図(清見寺の関所付近拡大)
■清見関(きよみがせき)と清見寺(せいけんじ)
 三保の松原と並ぶ駿河の名所と言われた「サッタ峠」付近には、古くから関所が設けられていました。海岸に沿って走る海道には北側から山が迫っているため、東国の敵を防ぐには格好の場所だったのです。そして、清見関と名付けられたこの関所付近は、数々の戦いの舞台となりました。清見寺の創建の時期は明らかではありませんが、清見関を守るための関守として建立されたのが始まりとされ、その時期は平安後期にまでさかのぼります。その後清見寺は関寺として国からの収益を後ろだてに繁栄しましたが、鎌倉時代に入ると律令制(りつりょうせい)の崩壊とともに経済基盤を失った関所は衰退していきました。
■富士曼陀羅図に描かれた清見寺の関所
 富士山本宮浅間大社に、今から500年ほど前の富士信仰の様子を描いた「富士曼陀羅図」が伝わっています。この図を人々に掲げて絵についてひとつひとつ説明しながら信仰への勧誘を行ったもので、俗に「絵解曼陀羅(えときまんだら)」とも呼ばれます。
 写実性に富んだこの図は、当時の風俗習慣や建築物を探る上で貴重な資料となっており、その中に描かれた清見寺は朱塗りの柱に金色の九輪がまばゆく映える三重の塔「瑞雲庵(ずいうんあん)」がひときわ目立ちます。
 この時代に清見寺があったことは「宗長手記(そうちょうしゅき)」の中の「瑞雲庵、塔よりうヘにあり」という記述によって確認できます。また、塔は五重塔であったと諸記録に記されているので、この図の塔はのちに再興された塔と思われます。
 この図で注目されるのは、清見寺の門前に関所が見られることです。簡素な門ですが、南側の柵は波打ち際にまでおよんでいます。番所というべき小屋の中には僧侶の姿が見受けられ、この関所が清見寺の施設であったことがわかります。
■関所通過は富士参詣の行程
 さて、もう一度「富士曼陀羅図」に目を向けてみると、図には関所を通過したばかりの富士参詣の一行の姿が見られます。彼らは富士山への往復にあたって、清見寺の関所で通行税を支払わなければなりませんでした。
 戦国時代の駿河・甲斐にはこうした富士参詣者をおもな対象とした関所が各地に設けられていました。したがって富士信仰の繁栄は、清見寺にも多くの経済効果を及ぼしていたと思われます。
 このように「絵解曼陀羅」に三保の松原や清見寺の関所が登場するのは、すでにこれらが当時から人々を旅へいざなう名所・旧跡の地であったからと思われ、関所「清見寺」の通過は富士参詣への一行程でもあったのです。
■地すべりによる崩落と清見寺の被害
 さった峠付近をはじめ、由比町周辺は古くから地すべりの被害が頻繁に発生し、住民を悩ませてきました。清見寺でも「名勝庭園」の北側斜面で頻繁に崩落が発生しています。最近では平成12年から15年の間に4回の崩落が、いずれも6月から7月にかけての梅雨時に起こっています。幸い清見寺の建物への被害は崩落時に飛んできた石によってガラスが割れた程度ですが、梅雨時は常に注意が必要だといいます。
現在の清見寺
▲現在の清見寺
 この地域は海が山にせまった急斜面であると同時に、堅い岩盤状の地質の上にやわらかい土が乗っている構造であるために地すべりが頻発すると考えられています。