木曽三川治水偉人伝 高橋示証(たかはしじしょう)
[岐阜県海津市平田町生まれ 文政11年(1828)〜大正2年(1913)]
組織的な治水改修運動への道を開く
 高橋示証は、高須輪中の浄雲寺の長男として生まれました。
 生地は、木曽・長良・揖斐の三大川に囲まれた低湿地で、慢性的な洪水常習地帯でした。父の後を継ぎ住職となった示証は、悲惨な洪水被害を見るに忍ばず、仏の教えを説いて回るとともに、治水をめざす同士と結束し、治水事業に奔走しました。
 明治6年(1873)6月には、三大川の川幅を木曽川300間、長良川及び揖斐川は250間に拡張し、かつ河口まで分流するという具体的な治水策を建言しました。さらに明治8年3月には、「木曽川筋治水之儀ニ付」として、木曽三川も至急調査の上治水方策を樹立し、国益増進の方法を講ぜられたい等、明治政府の最高官庁である太政官の左院に上申しました。しかしこの左院は廃院となったので、新たに元老院に建言しました。
 高橋示証はこのように中央政府に積極的に建言するととともに、一方では地元住民に対しても分流工事の早期実現をめざす有志をつのるため、文字通り、輪中全域を行脚して募金活動を行ないました。この精力的な奉仕活動は次第に浸透し、組織的な改修運動へ発展。明治11年(1878)、「大垣輪中治水会」が創立されたのを皮切りに、翌12年には西濃地方の有志により「治水改修有志社」が、翌13年にはそれらの組織が大団結して、全国的な「治水共同社」へと進展していきました。
 この組織的な改修運動への道を開いた人物こそ、高橋示証です。こうして明治20年、木曽川改修工事は着工し、明治33年には長年の悲願であった三川の分流は実現しました。
 大正2年、示証は改修工事を見届けたかのように、86歳で永眠しています。
 現在でも、浄雲寺にはその業績を顕彰する治水碑が残されています。

■参考文献
『木曽三川治水百年のあゆみ』建設省
『浄雲寺・治水碑』碑文より
 
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