木曽三川治水偉人伝
ヨハニス・デ・レイケ[オランダ・コリンスプラ−ト生まれ 1842年〜1913年]
日本の近代砂防の祖、ヨハニス・デ・レイケ
 ヨハニス・デ・レイケは、わが国の近代砂防の祖と称されており、治水事業に大きな功績を残したオランダ人技師です。生地は小さな漁港に臨み、父が臨海土木の請負業あったことから、少年時代より水工技術に親しんでいたのでしょう。青年となったデ・レイケは運河会社の上級工事監督となり、このとき、ファン・ドールンに出会ったといわれています。
 ファン・ドールンは、明治政府が築港や河川改修を実施するため、招聘したオランダ人技師団の団長です。明治5年(1872)以降、ドールン以下6人の技師と工手が来日しています。
 ヨハニス・デ・レイケは、明治6年、31歳で来日。当初はドールンらと淀川改修計画に参加していますが、明治10年より木曽三川改修計画を担当します。明治11年(1879)2月23日から3月7日までの間、木曽・長良・揖斐の三大川をはじめ支派川の調査を実施。この間、治水共同社の創始者、片野萬右衛門がデレーケに長良川と揖斐川の分流を進言しています。
 この調査に基づいて起草したのが「木曽川下流概説書」です。この書によれば、「デ・レイケは水害多発の原因を木曽三川をはじめとする諸川の流出する土砂の堆積にあると指摘しています。そしてそれは、河川流域における樹木の伐採によって引き起こされていると述べています。
 「川を治めるにはまず山を治めるべし」。
 この治山治水の思想のもと、デ・レイケは最後まで上流部の水源地砂防の重要性を強調。これが、近代砂防の祖と称せられるゆえんです。
 オランダ人技師の中でも、30年と最も滞在期間が長かったデ・レイケは、オランダの水工技術を基礎としながらも、日本の国土条件と社会条件を的確に把握し、その特徴にあった河川改修・港湾事業を指導しています。中でも日本の近代的な治水工事の先駆けとなった木曽三川分流工事は、デ・レイケが作成した木曽三川改修計画に基づいて、明治20年(1887)工事着工、明治45年(1912)3月に完成しています。この木曽三川改修をはじめ淀川改修、大阪築港、四日市築港、細島築港、デ・レイケ工法あるいはオランダ工法と呼ばれた不動川の砂防工など、その功績は枚挙にいとまがありません。
 明治36年(1903)、30年間にも及び滞在生活に終止符を打ち、デ・レイケは帰国しますが、その生活は波乱に満ちたもの。最愛の妻や息子が相次いで病死した後もなお日本にとどまり、近代の治水事業に大きな軌跡を残したデ・レイケに、今もなお賛辞がやむことはありません。

■参考文献
『デ・レーケとその業績』木曽川下流工事事務所
『木曽三川流域誌』建設省
『輪中と治水』岐阜県博物館
 
国土交通省 中部地方整備局 木曽川下流河川事務所
〒511-0002 三重県桑名市大字福島465  TEL:0594-24-5711(代表) FAX:0594-21-4061(代表)

copyright c 2013 国土交通省 中部地方整備局 木曽川下流河川事務所. all rights reserved.