木曽三川治水偉人伝 金原明善(きんばらめいぜん)
[静岡県安間村(浜松市)生まれ 天保3年(1832)〜大正12年(1923)]
治山治水の思想のもと、植林作業を積極的に展開
 幼少のころより強い意志と学業に秀でた金原明善の幼名は弥一郎。彼が生まれた安間村一帯には「暴れ川」と呼ばれた天竜川が流れており、嘉永3年(1850)から明治元年にいたる19年間にたびたび氾濫して大きな被害をもたらしました。この洪水の恐ろしさを身をもって体験した明善は、明治元年(1868)、36歳の折り、長年の計画を実行すべく、私財5万6000円をなげうち、新しい明治政府の許可を得、天竜川に約7キロの堤防工事を行ないました。明治7年(1874)、オランダ人技師と天竜川上流の森林調査を行なった明善は、荒れ果てた山々を見て、川の氾濫を治めるためには、森林の保全にあることを実感しました。彼が天竜川の植林作業のために官有林に寄付した苗木は、スギ250万本、ヒノキ50万本。まさに全財産を投じての治山治水活動でした。この植林作業は天竜川上流はもちろんのこと、伊豆・天城山、富士山の麓、岐阜県の森林に至るまで、広範囲に及びました。
 明善の偉業は、同じ洪水で苦しむ他地域の人々にとっても大きな支えとなりました。
 大垣輪中(大垣市)で幼少のころから、洪水の恐ろしさを体験した金森吉治郎は、彼の影響を受け治水事業に生涯を捧げるようになりました。明治24(1889)年の濃尾大震災の際には、明善と吉治郎がともに根尾谷の山腹崩壊の実情を撮影して天覧に供し、その結果生まれた森林法が実施され、岐阜県下に5万2000ヘクタ−ルの植林が行なわれました。
 治水に全生涯を捧げた金原明善は92歳で天寿をまっとうしますが、植林された木はそのまま生長を続け、その一部は記念林として、また学術参考林として、現在も瑞々しい緑に包まれています。

■参考文献
『日本人名事典』三省堂発行
『木曽三川流域誌』建設省
『輪中と治水』岐阜県博物館
 
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