木曽三川治水偉人伝 片野萬右衛門(かたのばんえもん)
[岐阜県輪之内町生まれ 文化6年(1809)〜明治18年(1885)]
治水共同社を設立し、輪中意識を排した治水事業に尽力
 私財をなげうって治水事業に奔走した片野萬右衛門は、福束(ふくつか)輪中の名家に生まれました。30代の若さで庄屋職に就任すると、父が遺した家訓正直と慈悲、堪忍を手本として忍を忘れず、身を低くもてを終生の戒めとして、治水事業に尽力しました。
 嘉永7年(1854)の豪雨で大榑川洗堰が破損した時には、関係村々の総代代表として洗堰修復の金策に走り回り、元どおりに復元。慶応4年(1868)の洪水で決壊した堤防は、私財を投じて修築しています。
 福束輪中の排水樋門である四間門樋の築造も萬右衛門の功績の一つ。彼の設計により明治13年には、完成しています。しかし、岐阜県からの補助金は総額の一割にも満たない少額なもの。そこで万右衛門は岐阜県にその窮状を訴え、建築代金の調達はもちろんのこと、関連水路の拡幅工事及び新川の堤防の嵩上げ工事などがすべて実施され、内水湛水による被害は少なくなりました。
 こうした偉業の中でも治水共同社の設立は、特筆すべきものでした。明治13年(1880)、80余りの輪中が利害を輪中が利害や損得を乗り越えて団結し、従来にない事業組織を完成させました。治水共同社は地域住民はもとより多くの役人からも支持を受け、国の土木局長であった石井省一郎は、50円という大金を寄付しています。
 近代史上まれに見る大事業、木曽三川下流改修を立案するため、オランダ人技師ヨハニス・デ・レイケが木曽三川水系調査の途中に福束輪中を訪れた折りにも、萬右衛門は長良川と揖斐川の分流を進言。彼は木曽三川分流工事が着手される前の明治18年に没していますが、三川分流工事実現に向けて、中心となって取り組むとともに多大な役割を果たしました。
 輪之内町四郷にある片野記念館は、萬右衛門の子孫、片野知二氏が設立した私設博物館です。萬右衛門の遺品はもちろんのこと、民俗史料や美術書などが保管・陳列されています。

■参考文献
『ふるさと輪之内』岐阜県輪之内町町発行
『開けゆく輪之内』岐阜県輪之内町発行
『輪中と治水』岐阜県博物館友の会
 
国土交通省 中部地方整備局 木曽川下流河川事務所
〒511-0002 三重県桑名市大字福島465  TEL:0594-24-5711(代表) FAX:0594-21-4061(代表)

copyright c 2013 国土交通省 中部地方整備局 木曽川下流河川事務所. all rights reserved.