木曽三川治水偉人伝
酒井七右衛門(さかいしちえもん)[尾張藩北方奉行〔文政2年(1819歿〕]
輪中間の対立を収め、堤防の築造を許可した名奉行
 酒井七右衛門は、尾張藩北方奉行です。
 江戸時代、木曽三川下流地帯に点在する輪中地帯では、上流と下流の集落の利害が対立し抗争に発展することも多々ありました。当時、堤防の築造は幕府の裁可の上で工事が行なわれましたが、このような地域では、新しい堤防の築造は容易に許されず、度重なる水害に苦しめられていました。
 酒井七右衛門は、そんな農民たちの要望に耳を傾け、畑繋堤の築造を黙認。その名奉行ぶりは、今でも輪中地帯で称されています。
 酒井七右衛門が黙認した畑繋堤とは、正規の堤防ではなく、畑と畑を盛り土でつないだ、いわば、畑の連続堤防です。松枝輪中(岐阜県・柳津町・笠松町一帯)に、約23年の歳月を擁して築造されました。
 この松枝輪中一帯は、宝暦治水により水害が多発するようになったところ。宝暦治水で大榑川洗堰が完成すると、長良川の水位が高くなり、出水時には支川の境川に逆流するようになりました。この境川の右岸の集落には堤防がありましたが、左岸にあった松枝輪中にはしっかりとした堤防がなく、水害が続発するようになったのです。
 天明2年(1782)の水害は特にひどく、天明4年には輪中の農民がついに北方代官所に強訴。その代表者4人は投獄され獄死しています。
 この後の輪中の農民は、築堤が不許可ならば田を畑に転用したり、畑地に盛り土したりして、洪水に備えました。ある意味では合法的に、しかも実質的な小土手を築いていったのです。

畑繋堤の碑

 この農民の執念の産物ともいえる畑繋堤は文化4年(1807)頃にほぼ完成。その2年前、北方代官になった酒井七右衛門は、農民がいう「流れた土を原形に取り繕う」という名目で盛り土し、田は新畑に作り上げて作付けするという事実上の築堤を黙認しました。
 この後、松枝輪中と対岸の集落は談議を重ね、松枝輪中が畑繋堤を築くことを認める代わりに、他の集落が水害に遭わないように堤防を築造する費用を負担することで決着しています。両者の決定に従い、対岸の集落が堤防の普請をしようとした時、幕府はその普請の必要を認めず、また、問題は振り出しに戻ってしまいました。
 文化10年(1813)、江戸幕府評定所はえ喚問された酒井七右衛門は「一方は堤防を築き、一方は氾濫勝手次第なるを容さんや」と松枝輪中だけを水害に苦しませてはならないと主張。酒井の論に納得した幕府は、築堤を許し、的確な措置であったと賞したそうです。
 酒井場七右衛門は、文政2年(1819)、病死しています。

■参考文献
「ふるさと笠松」岐阜県笠松町発行
 
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