木曽三川治水偉人伝 山田省三郎(やまだしょうざぶろう)
[岐阜県岐阜市出身《天保13年(1842)〜大正5年(1916)》]
県全体の問題として治水を提起した議員活動
 山田省三郎は天保13年、美濃国稲葉郡佐波村(現岐阜市佐波)の旧家に生まれました。幼くして父を失なった省三郎は、13歳で家督を継ぎ名主となり、次いで庄屋役、加納藩の堤防取締役にも任じられました。省三郎は少年のころから治水に熱心であり、19歳のときには加納藩主に治水の策を建じ堤防修築の急務を説いたことがあるといわれています。それも輪中と呼ばれる水害常習地帯に生まれ、破堤の災難に遭い、仮小屋で握り飯をもらってようやく命をつないだという経験に根ざすものなのでしょう。
 明治12年(1879)、岐阜県に初めて県会が創設されると省三郎は県会議員に当選。彼は最初の県議会で地方税支出予算に堤防費が組込まれていないことを問いただしています。当時、堤防費は受益者負担が原則で国庫補助金と地元の負担金で賄うのが通例でしたが、省三郎は「国からの負担金は全国各地で使用されるもので、岐阜県においても直接被害のあった堤防への補助金であって岐阜県のように数郡にまたがる堤防の場合、地方税で支出するのが当然である。どうして堤防費をあげないのか」と指摘しました。また同じ水に悩む地域出身の議員、脇坂文助、国枝小左衛生門(ともに安八郡選出)とともに西濃治水派と呼ばれる一大勢力を形成、「西南10余郡の存亡は堤防の如何による。ひとたび堤防が決壊し水害を被ったならば、県全体の盛衰にかかわる」と再三にわたって主張しました。
 このように省三郎は、堤防費を地域住民の受益者負担のみにすることに反対し、輪中地域の問題を県全体の問題として解決していこうとしました。こうした輪中全体の期待を背負った県会議員としての活躍は24年間という歳月に及びました。

世論を背景に木曽三川下流改修の実現に奔走
 しかし、地方税の枠内だけで水害の根本的な解消を進めていくことができないため、明治13年(1880)、省三郎は輪中地域の治水功労者片野万右衛門らとともに「治水共同社」という有志団体を結成、世論をまとめたり、陳情したり、意見を上申する運動機関として活動しています。明治14年に加納輪中水利土功会が開設されると、その議員となっています。
 その後、木曽三川改修策定時の土木局長で、後に大阪府知事となった西村捨三や、治水王といわれた金原明善らとともに「大日本治水協会」を設立し、「治水雑誌」を刊行。治水に対する意見発表と交流の場をつくり、治水に関する世論を盛り上げていったのです。
 こうして、木曽三川改修の実現に全精力を注いだ省三郎の仕事も、三川分流工事の竣工により一段落がつきました。明治35年(1902)衆議院議員に当選し、連続3期に渡って勤めましたが、日露戦争などの時勢により活躍の場はありませんでした。しかし、代議士をやめた後も、明治43年に内務省治水調査会で木曽川上流改修問題が諮問されたときには、病中にかかわらず上京し、その不備な点について論難するなど、終始治水に尽くし、大正5年(1916)75歳で病没しました。「昔、禹は水を治むること3年、家門を過ぐれども入らず」という古語を例に引き、家を顧みず治水に捧げた生涯でした。
 昭和4年(1929)、その徳を偲んで岐阜市内の金華山麓岐阜貢献銅像が建てられましたが太平洋戦争の金属改修にあい姿を消しました。しかし、その後昭和32年(1957)、岐阜市内の長良川金華橋近くの四ッ屋公園に顕彰記念碑が建てられました。

■参考文献
「木曽三川流域誌」建設省1992年発行
「輪中と治水」岐阜県博物館1990年発行
 
国土交通省 中部地方整備局 木曽川下流河川事務所
〒511-0002 三重県桑名市大字福島465  TEL:0594-24-5711(代表) FAX:0594-21-4061(代表)

copyright c 2013 国土交通省 中部地方整備局 木曽川下流河川事務所. all rights reserved.