KISSOこぼれネタ VOL.70 桑名市特集号
なくなった香取川
かつての木曽三川は、濃尾平野を乱流し多くの輪中を作り上げ、油島付近で一箇所に集まり、そうして、再び分派して伊勢湾へ流れて行きました。

明治30年頃まで、香取と七郷輪中の間には揖斐川から分派した「香取川」が流れていました。そうして、この香取川へ、山除川・多度川・肱江川が流れ込んでいました。

香取川が何時頃できたのか、それを明らかにする資料は発見されていませんが、長保2年(西暦1000年)に「伊勢国鹿取庄は代々相伝の所領也」と云う申し出があったと伝えられていますから、この頃には香取川も存在していたと考えられます。

香取には香取湊があって、古代の東海道の拠点として発達し、香取市などによって賑わっていました。また、山除川が香取川に合流する地点(海津市内で長除川が山除川に合流している付近)には、下一色船着場があって美濃方面への拠点となっていました。

このように、舟運の場として親しまれて重要な役割を果たしてきた香取川も、洪水の際は、たびたび氾濫し地域の人々を困らせてきました。

江戸時代に入って多くの治水工事が行われましたが、香取川に対して根本的な治水対策が行われませんでした。明治20(2887)年から始められた木曽川下流改修工事(明治改修)は、木曽・長良・揖斐の三川に対して根本的な治水対策が行われることになり、三川を完全に分離するとともに、佐屋川・大榑川など多くの派川を締切り、洪水氾濫を防止すると共に、輪中からの排水機能を改良しましたが、この時、香取川もほぼ中央部で締切られ香取川が姿を消しました。

香取川のうち、ほぼ中央部の山除川合流点(現在の国道258号高架橋付近)から、多度川合流点(新多度橋付近)までの香取川河道は廃川となり、香取川の上流部の河道は、山除川の下流部分として残され、いままでの香取川を逆流する形で揖斐川へ流れることになりました。また、多度川合流点から下流の香取川河道は、多度川および肱江川の下流部として残され、多度川は直接揖斐川へ交流することになりました。

現在の七郷輪中の西側に見られる堤防は、香取川の左岸堤防でしたが、廃川後も輪中提として残され、現在では、北側部分は山除川の右岸堤防、南側の多度川合流点から下流は多度川の左岸堤防としてその役目を果たしています。また、多度川から山除川まで香取川の右岸堤防は、現在の国道258号敷として利用されています。

廃川となった香取川の中央部には、新たな土地利用が始まりました。多度川に最も近い南側には、明治41(1908)年5月に多度北小学校(当時は七取小学校)が建てられ、明治44年4月には、七取村の全神社が上之郷の内母社に合祀されたのち、祭神面足命外23柱をお祀りする内母神社として現在に建立されました。また、農地として廃川敷が払下げられ、これにともない三重・岐阜の新しい県境が設定されました。


左側の地形図は明治22年測量・明治25年地測量部発行、右側の地形図は平成8年国土地理院発行の1/5万地形図「桑名」の一部分です。県境の変化や廃川敷の土地利用の変化が良くわかります。
 
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