KISSOこぼれネタ VOL.68 揖斐川町特集号
横蔵街道・巡礼街道と渡船

〔古代からひらかれた参詣の道〕
揖斐川町の谷汲山華厳寺と両界山横蔵寺は、平安時代初頭に建立された古刹。
創建当時から多くの人が古代の主要官道である東山道の赤坂より北に入り、揖斐川を渡って参詣に訪れていました。
中世における主要な参詣路は、赤坂から八幡・本郷・小島・房島・北方・仁坂峠・有鳥を経て横蔵寺に至る横蔵街道です。
この街道は、長久元年(1040)横蔵寺三十世源恵の代に、一里ごとに薬師如来を祀った仏堂が建立されました。
赤坂・八幡・萩原・小島・北方・有鳥・横蔵寺に建てられた七仏堂は、現在は位置(略図に丸数字表示)がかわって存在していますが、街道の道筋は明確には残っていません。
15世紀に華厳寺が三十三所観世音巡礼最後の札所に位置づけられると巡礼者の数も増えました。
その多くが横蔵寺から華厳寺に至る順路を通ったほか、横蔵街道の途中から華厳寺方面に向かう道がいくつかあったようです。

〔揖斐川を渡る渡船場〕
江戸時代に入ってからも巡礼者は絶えることなく、中山道赤坂宿から北に上り古来とほぼ同様のルートを辿る横蔵街道が主要な参詣路でした。
また、横蔵街道の途中池野田新田から分かれて上田・杉野を経て小野坂峠を越え谷汲山華厳寺に至る道が巡礼街道と呼ばれました。

道中揖斐川を渡ることになりますが、大川に橋を架けられなかった当時は渡し場で渡船を利用しました。横蔵街道は「野中の渡し」で房島に渡り、巡礼街道は杉野と島村を結ぶ「島の渡し」を利用しました。
揖斐川上流部にはこの他に、「森前の渡し」(北方森前〜上野間)・「井ノ口の渡し」(房島井ノ口〜上野間)・「岡島の渡し」(下岡島〜三輪間)などの渡し場がありました。
江戸時代を通して揖斐川の流路は洪水によって幾度か変わっているので、渡し場の位置も変動していました。

明治以降も、渡船は揖斐川を渡る唯一の手段として、多くの人と荷物を運んでいましたが、雨が降ると川が増水し渡船が出せないなど不便が伴いました。
揖斐川上流に初めて橋が建設されたのは、明治一八年の岡島橋(栄久橋)で、その後、脛永橋・粕川橋・瑞岩寺橋と架橋が進み、渡船はしだいに姿を消していきました。


■参考文献
「揖斐川町史 通史編」 昭和46年 揖斐川町
揖斐川歴史民俗資料館 展示
 
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