KISSOこぼれネタ VOL.65 中津川市特集号
裏木曽をめぐる角倉と原田右衛門忠政の確執

〔豪商・角倉了以・素庵の木曽川開発〕
安土桃山時代から江戸時代初期の豪商・角倉了以(すみのくらりょうい)は、ベトナム貿易で利益をあげる一方で、大堰川(保津川下流)の開削を始め富士川、天竜川などの水運に功績のあった人物です。
木曽川における木材流送においても、嫡子・素庵と共に開発に大きく関わり、木曽山から産出する木材を扱う特権を得ています。
角倉の優れた河川土木技術と資本力が、木曽山の奥地林開発を可能にし、その見返りが木曽山・裏木曽の貢納木の独占的取り扱いや板子類三万挺の扶持(採取権)でした。
木曽山・裏木曽が尾張藩領となった以降も、角倉素庵は当時の材木商人の中でひときわ目覚しい採材活動を行なっていきます。
その突出した商行為を咎めようとしたのが、尾張藩国奉行の原田右衛門忠政でした。

角倉了以像

〔国奉行・原田右衛門の裏木曽支配〕
原田右衛門は、家康に才能を認められ尾張藩に付けられた能吏で、もともと木曽山を尾張藩領とするよう献策したのも原田であったと言われています。
国奉行は、寺社領、町方(名古屋・熱田・岐阜・犬山)以外の民政を掌握する行政の最高職でしたが、原田は材木奉行を兼務することで裏木曽を直接支配しました。
国全体を統括する国奉行が、一地域を直接支配することは異例ですが、当時は用材生産が最も盛んな時代で、木曽山以上に蓄積の多かった裏木曽は創業期の尾張藩にとって最重要地域だったのでしょう。

原田は、裏木曽山林の経営にあたって、角倉など自領外の商人を排除しようと画策しました。
原田が付知村庄屋に宛てた令状の中に、「角倉者の儀は申すに及ばず、他国より材木屋壱人も置き候て木を売り候は、聞き出し次第に成敗致すべく候」とあります。
こうした指令を再三発して角倉以下他国商人の閉め出しを強硬に実行しました。

〔原田右衛門の失脚にまつわる推測〕
ところが、原田は寛永六年(1629)江戸城台所虹梁材として木曽の槻(欅の古名)を尾張の材木屋惣兵衛と共謀して勝手に伐出・売上げたという罪状で切腹のうえ一家断絶となりました。
この件に角倉が関与した証拠は何もありませんが、藩の行財政の主柱ともいうべき人物の失脚を、角倉の巻き返しを抜きにして考えることは出来ないとする説もあります。
『付知町史』、『川上村史』などでは、山林規制の厳しさを語る上でよく使われる「檜一本に首一つ」の事例として、原田と材木屋惣兵衛処刑の話が取り上げられています。
「檜一本に首一つ」は明文化された法度ではなく恐れ戒めをもって流布した言葉ですから、この事件がその端緒であったのかもしれません。

■参考文献
「近世林業史の研究」 所 三男 昭和55年
「付知町史」  昭和49年
「川上村史」  昭和58年
 
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