KISSOこぼれネタ VOL.64 垂井町特集号
美濃の喪山神話

〔井町府中の葬送山古墳〕
国道21号を宮代の交差点で北に折れ、県道215号線を少し行くと府中地内に葬送山古墳があります。
喪山古墳とも呼ばれ、『日本書紀』『古事記』に記された国譲り神話(大国主命が天照大神に葦原中国を譲る説話)の中に出てくる「美濃国の喪山」であると古くから言われてきました。
神話の内容を要約すると次のような話になっています。

天照大神は、大国主命が治める葦原中国(出雲国)に遣わした天若日子(アメノワカヒコ=天稚彦)が永く高天原に帰ってこないことを不審に思い、無名雉に様子を見に行かせました。
ところが天若日子は雉を弓矢で射殺し、その矢は高天原まで飛んで天照大神に届きました。
天照大神がこの矢を地上に投げ返すと天若日子に当たり、天若日子は死んでしまいました。
天若日子の葬儀に、天若日子にそっくりな阿遅志貴高日子根神が現れたので、親族は死者が生き返ったと喜びます。
死者に模されて怒った阿遅志貴高日子根神が、喪屋を剣で切り、足で蹴ると、喪屋は美濃国藍見河の河上まで飛んで喪山となりました。

喪山(葬送山古墳)
ここでいう喪山が府中の葬送山古墳であるとすると、藍見河は当然、相川に相当することになります。

〔「垂井説」と「大矢田説」〕
ところが、喪山については、他に美濃市大矢田にある大矢田神社を中心とした一帯にあるとする説もあり、この場合、藍見河は長良川か或いはその支流ということになります。

江戸時代後半には、既にこの垂井説と大矢田説の両方が知られていたようで、『美濃国古蹟考』や『美濃国名所和歌』(1746年)などに、2つの説が出ています。
本居宣長も『古事記伝』(1790〜1822年刊行)において喪山の所在地は不明としながら2つの説を紹介しています。
しかし、江戸時代末期の時点では広く一般に知られていたのは垂井説で、これは『木曽路名所図会』(1805年)が垂井宿の東にある小さな山を喪山として紹介した影響が大きいとされています。
喪山について初めて本格的な論証を試みたのは川上内郷(?〜1857)で、著書『美濃喪山考』で大矢田説を採っています。
神話世界と実在する事物を結びつける作業は、明治以降も盛んに行なわれ、喪山伝説についても様々な比定がなされてきました。
神話と史実がはっきりと区別され、神蹟の所在を特定することがそれほど意味を持たなくなるのは20世紀になってからのことです。

■参考文献
「新修 垂井町史」 通史編 昭和58年 垂井町発行
「泳宮と喪山」 羽賀祥二(名古屋大学文学部研究論文)
「岐阜県の地名」 平凡社発行
 
国土交通省 中部地方整備局 木曽川下流河川事務所
〒511-0002 三重県桑名市大字福島465  TEL:0594-24-5711(代表) FAX:0594-21-4061(代表)

copyright c 2013 国土交通省 中部地方整備局 木曽川下流河川事務所. all rights reserved.