KISSOこぼれネタ VOL.60 池田町特集号
池田町とその周辺の河川交通
鉄道が敷設される以前の物流の主役は舟運でした。
江戸時代から明治時代にかけて、池田町域では北東を流れる揖斐川と地域の中央を流下する杭瀬川の二つの河川で舟運がさかんでした。
「明治一四年町村略誌」には、揖斐川筋の杉野村に31艘、白鳥村に18艘、杭瀬川筋の八幡村13艘、片野村6艘の民間船舶があったことが記されています。

〔揖斐川の舟運〕
池田町周辺の揖斐川舟運の状況を示す記録として、弘化2年(1845)、房島村(揖斐川町)に船120艘があったとされており、江戸時代には房島村がこの地方の舟運の中心地だったようです。

池田町域では、杉野村が揖斐川舟運の中心で、大垣藩領の廻米積み出し土場(船着場)が所在し、村の男の大半が船頭で生計を成り立たせていたとされています。
また、脛永村にも江戸時代初頭から荷船があり、船頭もかなりいたことが知られています。
江戸時代の脛永村は、沓井村とともに備中岡田藩領で、両村を管轄する下代官は藩の指示を受けて年貢米を江戸に舟で運んでいます。
江戸までの輸送経路は、脛永村の土場から積み出し揖斐川を桑名まで下り、桑名からは問屋の手で江戸へ廻送してもらっていたようです。
「明治一四年町村略誌」では脛永村の船舶数は13艘となっています。

〔杭瀬川の舟運〕
杭瀬川は、年間を通して水量が安定しているため江戸時代から水運が盛んな河川でした。
その中心地は中山道が交わる赤坂(大垣市)で、杭瀬川筋から牧田川を経て揖斐川に出て桑名方面に連絡していました。諸藩の蔵米や材木、酒などを輸送するとともに、旅人の交通路としても大いに利用されました。

赤坂より上流の杭瀬川舟運がさかんになるのは明治になってからで、明治25年頃、市橋に湊が設けられて、特産の石灰などを積み出していました。
最上流の湊は八幡で、木材や農作物を搬出し、戻りの船で海産物や日用雑貨などが運ばれてきたそうです。

しかし、江戸時代にも杭瀬川上流部で舟運はおこなわれており、八幡付近から年貢米などが赤坂方面に川下げされていました。

「大垣藩地方雑記」には、杭瀬川舟運に関連した事件が記録されています。
天保10年(1839)、山洞村の百姓益蔵が杭瀬川で年貢米をはじめとした商人荷物などを運んで業を成していたところ、赤坂宿が通行銭を取立てようとしたので益蔵が訴え出た一件です。結果は、江戸表道中奉行の裁断によって、赤坂宿の通行銭取立ては認められませんでした。
この一件から、当時、杭瀬川上流部でも舟運が営まれていたこと、杭瀬川舟運の中心が赤坂宿であったことをうかがい知ることができます。


八幡港跡

■参考文献
池田町史 通史編  昭和53年 池田町
 
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