KISSOこぼれネタ VOL.59 木曽岬町特集号
木曽三川下流域に排水機を導入した諸戸清六

木曽三川の最下流部に位置する木曽岬町は、河口の寄洲を開発した農村地帯でした。用水は木曽川やその支派川に、排水は自然排水にたよっていました。
しかし、明治24年(1981)の濃尾地震により地盤は陥没し、自然排水が著しく困難となりました。
こうした窮状を打開するために、排水機の導入を提唱したのが、木曽岬町加路戸出身の諸戸清六でした。

諸戸清六(1846〜1906)は山林王と呼ばれた実業家です。
諸戸家は加路戸で代々庄屋を営む名家でしたが、清六の父・清九郎の商売の失敗に伴い桑名市に移転し、米問屋を皮切りに次々と事業を手がけ、一代で財を築いたのでした。

諸戸清六肖像
清六に動力ポンプを進言したのは、諸戸家に縁のあった農商務省の技師・吉川正夫でした。
吉川は用水の設備としてのポンプの必要性を清六に熱く語ったのですが、彼の提案に耳を傾けた清六は「不用の水を排除することができるのか」と、問いかけたといいます。
濃尾地震の影響で良田は冠水田に化し、湛水を人力でかい出す農民の苦労を見るにつけ、清六は排水の対策が急務であると肌で感じとっていたのでしょう。
「動力ポンプは用水にも悪水排除にも同じ効果を発揮する」という吉川の答えを得た清六は、明治36年(1903)、伊曽島村(現桑名市長島町)に遠心動力ポンプを設け、その効果を確認したといいます。この遠心動力ポンプは、清六が東京・大阪あたりで購入したものを自宅内の鉄工所で改良したのであろうと、吉川は後に語っています。
動力ポンプの効果を実感した清六は、明治37年木曽岬村(現木曽岬町)、長島村(現桑名市長島町)と七取村(現桑名市多度町)に、明治38年城南村(現桑名市城南)に動力の排水機を導入しました。

明治38年の明治天皇行幸に際して、桑名郡役所が調査報告をした「諸戸清六ノ経歴並びに事業譚」によると、諸戸の事業の第一に排水事業をあげ、第二に、水道事業、第三に植林事業を上げています。
この報告書の中で、排水機導入による効果は、導入前の収穫高が一反あたり60kgだったものが、導入後は300kgに増加。また、排水機導入により二毛作が可能になったことから、収穫高は飛躍的な向上を遂げたとあります。
この排水の成功を一番喜んだのは、もちろん、木曽岬・長島など木曽三川下流域に住む農民たちでした。

田畑、山林を積極的に購入し、日本一の山林王と呼ばれました清六ですが、一方で公共事業に私財を注ぐことを惜しみませんでした。
もともと桑名一帯の井戸水は混和物が多く、飲料水に適さなかったことから、清六は水道施設を独力で設置し(諸戸水道)、一般に開放しました。また桑名町内30ヵ所以上に消火栓を設けました。
このような設備は当時大都市を除いて稀なものであり、全国で七番目であったといわれています。

■参考文献
桑名市史本編 昭和34年 桑名市
諸戸清六伝   昭和53年 松岡譲・中部経済新聞掲載
 
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