KISSOこぼれネタ VOL.58 可児市特集号
旧姫治村に残る砂防碑
明治11年(1878)2月、オランダ人技師ヨハネス・デ・レーケは、初めて木曽川流域の調査を行いました。約1ヶ月にわたって調査を行った結果を「木曽川下流概説」としてとりまとめ報告しています。
その中で、木曽川については、「木曽川ヨリ流出スル砂量ヲ減ズル事ニ着手スベシ。」と述べているように、河川改修を行う前段として「砂防工事」が必要であることを強く説いています。

デ・レーケは、木曽川下流の「明治改修」が着工されるまでに17回も木曽川の調査を行っていますが、その中で、明治14年(1881)には、中津川市加子母から苗木城を経て、恵那市から中山道を通って岐阜に至る調査行程があります。御嵩付近の6ヶ村では自分達の費用で砂防工事を行っているのをみて感激し、内務大臣(当時は内務卿)から褒状を出すように進言するとともに、当時2万7千円であった木曽川の砂防予算を、さらに10万円増額するように強く進言しています。

これによって、木曽川流域の各地で砂防工事が行われるようになりましたが、どこで、どのような工事が行われたのかを明らかにしたものが少ない中で、可児市姫治には、明治15年から明治21年の5年間にわたる砂防工事の経緯を後世に伝える記念碑が、明治21年に建立され現在も残されています。
記念碑は、可児市姫治の三宮神社の境内に、大針・大藪・下切・谷迫間・今の5ヶ村による石碑と塩河村による石碑が並んで建立されています。(写真1)
さらに神社に向かって右手の片隅に自然石による碑が残されています。(写真2)

記念碑に刻まれている文章の大意は、岐阜県治水史にも紹介されていますが、塩河村の碑には、工事主任として内務技手江平幸造氏のほか岐阜県職員、戸長など多くの人々の名が刻まれています。
工事費は、今など5ヶ村では約9,082円で地元負担として民費が約1,482円。塩河村では、約462円のうち82円が民費によって賄われています。篆額には小崎利準岐阜県知事によって「澤及後昆」と記されています。


(写真1)
右側が今村など五ヶ村建立の石碑
左側が塩河村建立の石碑

(写真2)
塩河村 建立の石碑

■参考文献
岐阜県治水史 通史編  昭和56年 岐阜県
 
国土交通省 中部地方整備局 木曽川下流河川事務所
〒511-0002 三重県桑名市大字福島465  TEL:0594-24-5711(代表) FAX:0594-21-4061(代表)

copyright c 2013 国土交通省 中部地方整備局 木曽川下流河川事務所. all rights reserved.