KISSOこぼれネタ VOL.56 中津川市馬籠・山口地区特集号
木曽谷は信濃か、美濃なのか
中津川市落合から中山道を北上すると、「是より北木曽路」の島崎藤村が書いた石碑があります。さらにもう一つ、美濃・信濃国境の石碑があります。かつての岐阜・長野県境です。
山口・馬籠地区は、木曽谷の入り口にあり、まさに平野部から山地へ入る山の口の村でした。信濃国と美濃国の境をなし、両国の文化の橋渡しをした地といえます。
この地区が、信濃国なのか美濃国なのかについては、古くから問われていることでした。
三代実録(901年成立)の元慶3年(879年)9月4日の条には、次のように記しています。

『美濃国と信濃国では昔から今まで、国境に関して紛争があり解決しなかったので、貞観年中(859〜876年)に藤原朝臣正範・靭負直継雄らを派遣し、両国の国司と現地に臨み、国境を定めさせた。このときの正範らの報告によると、もともと吉蘇、小吉蘇の両村(木曽谷の村落)は美濃国恵奈郡絵上郷の地域にあり、和銅6年(713)に美濃守朝臣麻呂らが、ここに吉蘇路を開通させた。ここは美濃の国府(不破郡垂井町府中)から10日余りもかかる距離にあり、信濃国のすぐ近くではあるが、もし信濃国ならば、美濃国司がこのような遠いところで工事をする理由がないという。それでこの報告にしたがって、木曽谷を両国の国境と決めた。』

三代実録によれば、恵奈郡に、絵上・絵下の二郷があり、信濃国境争いに登場する吉蘇、小吉蘇の両村は、絵上郷に属していたようです。

「中津川市史上巻」(昭和43年刊)によれば、絵上郷の範囲は、木曽川の上流を占める木曽谷の大部分をさすものと考えられると述べ、次のように位置づけています。

『鉢盛山を水源とする木曽川は、木曽山脈に沿って木曽の渓谷をつくり、上松町で御嶽山に端を発する王滝川と合流して峡谷を南流し、現在の信濃国境の山口地区に至る90kmである。ところが、木曽谷中に吉蘇、小吉蘇を確定する文書がなく、またこれらの位置と推定される地域に古墳や奈良時代の遺品も少ないことから、木曽谷の地域のみで絵上郷を構成していたかどうかは不明である。』

しかし、慶長16年(1611)に創建された山口村諏訪神社の棟札に「恵那郡木僧内山口村」とあり、このことから、江戸時代初期には木曽の地域が美濃国恵奈郡の管轄であったことはうかがえます。
また、その後の正保元年(1644)江戸幕府が全国に発令して作成した全国絵図には、木曽の地域は信濃国としながらも、信濃国筑摩郡の境界線の外に木曽とし、筑摩郡の郡付けがありません。このころになると、美濃国恵奈郡という意識は薄れてきたようですが、それでも筑摩郡の線外にあるのは、信濃国所属も定まっていないことを示していると思われます。
この後の元禄年間(1688〜1703)の絵図では、筑摩郡と訂正され明記されています。

これらの史料に見られるように、美濃・信濃の国境にある木曽谷は、時代の変遷に伴って、微妙な立場を見せながら、江戸時代中旬には信濃国として位置づけられました。


美濃・信濃国境に建つ二つの碑

■参考文献
山口村誌 上巻 平成7年 山口村誌編集委員会
 
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