KISSOこぼれネタ VOL.52 立田村特集号
木曽三川下流改修と移住

〔立田輪中のほぼ四分の一が新木曽川河川敷に〕
明治20年(1887)、木曽川・長良川・揖斐川の三川分流を目指した木曽三川下流改修が実施されました。木曽三川下流域を連年のように襲う水害防御を目的とした抜本的な改修工事でした。

しかし同時に、住民の移住という大きな問題がありました。新しい木曽川の開削により、立田輪中の西側約四分の一の土地と約700戸が川底に水没するという大きな犠牲を抱えていたのです。

輪中地帯には、堤防沿いの地に多くの住家や村が集合していました。それはいったん破堤したら、輪中地帯で最も土盤の高い堤防上に逃げなければならないからです。
この村の一番良い所、最も集合していた場所、すなわち、堤防沿いの村々がことごとく川底となってしまったのです。

明治改修計画図

〔家屋等の移転〕
明治25年度あたりから順次移転作業に入っています。
同一字内は同じ時期にそろって作業を行っていたようです。移転先への舟路を整えたり、家の解体作業をしたり、お互いに助け合うことで心強く又能率の上がることもあったのでしょう。

住民にとって住居等の移転は一大事業でした。屋敷の移転先を決めると、まず元住居の解体と、新住居が出来上がるまでの仮小屋づくりから始めることになります。当時の村の中には、農閑期を利用して人夫として建築解体の仕事に従事していた者も多く、こうした経験者の助けを借りながら作業を行ったと思われます。

続いて新屋敷地の造成です。ところがその盛り土を工面することが困難でした。まず、元屋敷の土を採取することになりますが、不足を補う土の入手は、低湿地の立田では難しかったようです。もちろん、新堤防の造成後に行われる浚渫の土砂は手に入りますが、これは工事が始まって以降のことです。
土の運搬手段は舟でした。輪中内には江(小さな水路)が網の目のようにつながっており農作業の往復には舟が使われ、どの農家も1艘〜2艘の舟は所有していました。しかし、移転先は必ずしも川から近いとは限りません。舟の便の悪いところは、江を開き、舟の通路を確保することが必要になりました。
江の開削にあたっては、他人の所有であれば相応の借地料を支払うこととなりました。

こうして段取りがつくと、いよいよ宅地の造成です。舟で運んだ土はモッコに詰め、天秤棒で担いで造成場所まで運びました。おそらく家族総出の作業だったのでしょう。当時、どの農家にも荷車のようなものはなく、陸地の運搬手段はひたすら人力に頼っていました。
土運びの合間には、樹木や住居を解体した材木、土台石などの運搬をしなければなりません。今では想像も出来ない苦労と忙しい毎日が続いていたと思われます。

また、立田輪中の改修工事が終了する明治32年ごろには、新天地に活路を求めて北海道檜山支庁や豊橋の神野新田、三重県の椋本など各地に移住した多くの人々の苦労は並大抵ではなかったことでしょう。

大きな犠牲を払いながらも、木曽三川下流改修は明治45年に完了、輪中地帯の形態は大きく変貌しました。


■参考文献
新編 立田村史 三川分流  平成15年 立田村発行
 
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