KISSOこぼれネタ VOL.50 美濃市特集号
道塚堤と小俣川開墾事業

〔氾濫を繰り返す長良川〕
美濃市は長良川河畔に開けた町です。
美しい川の流れは美濃和紙という産業を育て、川湊を擁する要衝として町の発展の原動力ともなりました。
洪水に対する第一の備えが、河川堤防の保全であることは今も昔も変わりなく、人々の洪水との闘いは、堤防の保守でありました。
美濃市の南部の集落、松森・生櫛(いくし)・志摩・下有知(しもうち)の4つの集落を流れていた小俣川も、近世以来洪水のたび川の流れが変わり、近隣の集落に大きな被害を与えていました。

山崎橋付近から上流へ余取川が長良川へ合流するあたりまでの堤防を道塚堤防と言います。
小俣川は昔は長良川の本流でしたが、洪水により現在の位置に移動。洪水の時の外は水の流れない川となりました。

古田東逸(とういつ)等が明治9年、小俣川の分流地点である松森地区沿岸の道塚(小字名)に堤防を築いて締め切り小俣川河川敷の開墾計画を立て、東奔西走して地元及び沿川諸村と話し合い、同13年、漸く協議が纏まりました。

「美濃市史 通史編 下」より


〔古田東逸と開墾事業〕
明治14年(1881)、この事業主体として興農社を設立、古田東逸が社長になり、株主(30余名)が出資し、開墾資金は総額1万円に達しました。
そして、小俣川開墾予定地38町96反余の払い下げの請願を内務省・農商務省に提出しました。
当時、政府は開墾地の拡張を図っていたので、早速両省は官吏とオランダ人技師デレーケを派遣して実地を検分、その結果、翌年には小俣川開墾予定地を10年間貸下げの指令があり、土地が引き渡されました。

明治15年、堤防築造に着工し工事はほぼ竣工しましたが、翌年16年洪水のために決壊、ただちに修築しましたが出資金のほとんどを費消、さらに負債額は4,000円にものぼり、追加出資にたえられず脱社する者も多く、残る社員は10名余となりました。
こうした事業難航に加え、明治18年(1885)の洪水で再び堤防は決壊、いよいよ事業の維持困難が倍加し、古田に対して負債訴訟が起きる有様となりました。
しかし古田は残る同士を励まし再資金を募集、決壊堤防を修築、道路を開き、橋を架け、用水を開発するなど、開墾事業を継続すること10有余年、苦労の末漸く30余町歩の耕地を開きました。

こうして、明治24年(1891)、借地年限満期の年になり、10月より土地払い下げを受けるため実地測量準備中の10月24日、濃尾大震災が襲来し、せっかく開削した堤防、道路、橋、用水樋管はことごとく破壊されました。

堤防は震災復旧費でただちに修復されましたが開墾地は払い下げ前の免租地のため復旧費の補助はなく社費負担で復旧しました。
しかし、土地払い下げの通知に接した明治25年8月三度び大洪水となり、堤防は決壊し開墾地はすべて流失しました。
古田東逸の手記の最後に、
『嗚呼天災は止むを得ずといえども、前述の如く苦難に堪え辛酸を忍び漸くにして彼岸に達せんとするの期に際し不幸を重ね、古今未曾有宇の震災又水害、昨日の田今日化して磽囎s毛のちたり、豈狼狽せざるを得んや。当方一万円の資金を以って成功せしめんとしたる当社事業も既に三万余円を消費し、在来の財産悉く既往の開拓費に投し更に余禄あらざれば父子飢餓に泣き−云々』
と記しています。

財産のほとんどを事業に投げ打った古田らを容赦なく襲う災害の数々。
こうした逆境に耐え忍びながらも小俣川開墾事業は約15年の歳月を経て、ようやく38町9反歩の耕地を得ることが出来ました。
この事業は近代における美濃市域最大の開墾事業でした。
その後も小俣川締切の道塚堤は伊勢湾台風災害までに幾度かの災害によって決壊し改修されましたが、延長800m余りの勇姿はその上流下流に続く堤防と共に、今も美濃市南部の治水の最重点となっています。


山崎橋より道塚堤を見る

上流の余取川より開拓地の現状を見る

■参考文献
美濃市史 通史編 下巻 昭和57年 美濃市
 
国土交通省 中部地方整備局 木曽川下流河川事務所
〒511-0002 三重県桑名市大字福島465  TEL:0594-24-5711(代表) FAX:0594-21-4061(代表)

copyright c 2013 国土交通省 中部地方整備局 木曽川下流河川事務所. all rights reserved.