KISSOこぼれネタ VOL.49 木曽福島町特集号
尾張藩の林政と木曽美林

〔果たして圧政だったのか〕
木曽国有林といえば「ヒノキの美林」として余りにも有名です。その美林成立を物語る時、必ずといってよいほど話題になるのが「木一本首ひとつ」のたとえ話です。
この言葉は江戸時代、木曽を領有していた尾張藩の山林保護政策がいかに厳しいものであったかを示すたとえとして、これもまた有名すぎるほど有名です。

四国の香川県一県の面積に相当するといわれる木曽谷は、その95%が山林で、尾張藩はこの広大な山林を全部藩有林とし、住民の私有は許されていませんでした。
尾張藩では山林の保護制度として、巣山(すやま)・留山(とめやま)と呼ぶ禁伐林を設けて住民の立ち入りを厳禁し、また停止木(ちょうじぼく)と称して、ヒノキ・サワラ・ネズコ・アスヒ・コウヤマキ・ケヤキの六木を禁止する制度をとり、禁伐林の木を盗む者を「盗伐り」(ぬすみぎり)、停止木を伐る者を「背伐り」(そむぎり)として厳罰主義をもって住民に臨んでいました。ヒノキ一本を盗んだだけでも首が飛ぶといった厳罰をおそれたのが、「木一本首ひとつ」の言葉の由来だと伝えられてきたものです。

尾張藩の圧政に苦しめられた木曽谷の住民。こんなイメージをもたれる人もさぞ多いことでしょう。
しかし、江戸時代初期における1〜2例を除き、盗背伐者が極刑に処せられたという事例は、記録にはほとんどでてきません。
また、住民の立ち入りを絶対禁止したといわれる巣山・留山(木曽全郡で59箇所)の面積は、木曽全林からみたらわずかにその7%に過ぎず、これ以外の山林は明山(あきやま)といわれる開放林でした。

〔繁栄する木曽谷の経済〕
住民は明山へ自由に立ち入ることを許され、日常生活に必要な家作木(かさくぼく)[建築用材]や薪炭材・柴草・干草、食糧の補いにするクリ・トチ・ナラの実(ドングリ)などを採取することを公認され、停止木である六木以外の木材なら、誰でも自由に利用することができました。

このため、江戸時代における木曽谷住民の生活水準は、他の藩の農民と比べ高くとも、決して低いものではありませんでした。
当時の木曽谷は中山道の要衝に位置し、木曽十一宿があり、その交通所得も宿場町の発達につながっていったのです。
桧物細工(ひものざいく)[木地・漆器など]、木櫛・桧笠・下駄などの木材加工業による収入が大きく、当時としては驚異的な数字である1万5千人の人口を擁して繁栄していたのです。
そして、この消費都市である宿場町を控えた周辺の農村の約2万人の人たちも、藩行(はんこう)伐木に従事する杣(そま)・日雇(ひよう)などの林業労働による収入、木曽馬の名によって知られた畜産、宿場町への家作木や薪炭材の供給などによる収入が少なくなく、郊外農村的要素をもって、貨幣経済が流入し、比較的経済基盤が安定していました。
宿場町の奈良井・平沢・八沢(福島)では、住民の生活資材として毎年尾張藩から無償で給付される「御免白木」(ごめんしらき)と呼ぶヒノキの割材を使って、木曽谷特産の市漆器を生産していましたが、こういったヒノキの特別利用のほか、開放林である明山から伐り出した雑木を利用した木材加工業も発達していました。
歩く商品として経済性の高かった木曽馬の生産も、明山に含まれる草刈場からの飼料としての干草が確保できたことのよって可能になり、莫大な量に上りました。
また、不安定な食糧事情にあった木曽谷では、クリ・トチ・ナラの実・ササの実(野麦)や、わらび粉・くず粉・かたくり粉にいたるまでみな重要な食糧になっていましたが、これもみな広大な明山から自由に採取していたものであり、馬の飼料として笹の葉も毎年、相当奥地まで入り込んで採集していました。

〔木曽美林を生み出した尾張藩の山林保護〕
このように見てくると、尾張藩が明山のヒノキをはじめとする停止木を厳重に保護しながらも、いわゆる停止木以外の立木の伐採を許可し、これを利用させるといった、木曽山林の約93%に及ぶ明山を住民に開放していた林業政策が、木曽谷住民生活安定に大きく結びついていたことによるものだとうかがいしることができます。
明山から雑木類がおびただしく伐り出されたということは、停止木であるヒノキをはじめとするいわゆる木曽五木の生育のための障害木が徐伐あるいは間伐されることになり、「五木を残し、雑木を伐れ」と住民に山林利用の活路を明山に求めさせた藩の施策は、労せずして自然のうちに一種の整理伐作業を推進させ、結果的には今日みられる木曽美林を生み出すひとつの要因となっているものとみることができます。

こうした観点から木曽国有林の成立を見るならば、「木一本首ひとつ」の恐怖林政によって成立したとする木曽山に対する歴史観は見直さなければならないことになります。

〔明治時代の林政と御料林事件〕
しかしながら、尾張藩が木曽山林のすべてを藩有とし、明山の入会権は認めていたものの、私有は一切許さなかったその政策は、明治維新後の官民有林区分に当たって、木曽谷住民に大きな不利を与えることになります。
尾張藩有の木曽山林のほとんどが官林に移行されたからです。明山まで官林に指定されれば、住民の立ち入りは禁止され、生活の糧を失うことになります。

この官民有林区分に対して、反対のノロシを上げたのが、明治の文豪島崎藤村の兄、島崎広助です。
彼は妻籠宿本陣の当主。御料林事件と呼ばれた事件解決に向け、木曽谷住民の先頭にたって奔走しました。
しかしこの時期、官林が天皇所有の御料林に指定されたことから、運動は困難な局面を迎えます。明治時代の天皇は現人神。反対を唱えることは、天に弓引くことだったからです。しかし広助はあきらめることなく粘り強い交渉を続け、結局御料林の決定は覆すことが出来ませんでしたが、御下賜金という形で解決をみることができました。

■参考文献
木曽福島町史 第2巻 現代編T 昭和57年 木曽福島町役場
 
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