KISSOこぼれネタ VOL.48 尾西市特集号
治水家として、文化人として活躍した加藤磯足(いそたり)
加藤磯足は、起(尾西市起)の歌人であり、村政の中心的役割を果たした人物です。
延享4年(1747)、起宿本陣問屋の加藤家に生まれました。
正式の名は加藤右衛門七磯足。加藤家は本陣・問屋職を幕末まで世襲した起村の代表的名門でした。
磯足は本居宣長の門下生。

寛政5年4月、宣長は起宿本陣家に宿泊、磯足は在地の文人を集め、宣長を囲んで、木曽川の雄大な夜の流れをみながら歌宴を催しています。

 旅衣 木曽の川辺に宿りして 涼しき瀬々の月を見るかな

これは本居宣長がその歌会で詠んだ歌です。
この歌宴の主人、磯足は国学者であったばかりではなく、木曽川の治水事業にも大きな業績を残しています。

加藤磯足邸趾・起宿
本陣及び問屋場跡

磯足が活動した明和(1764〜72)から文化(1804〜18)という時代は、濃尾地方に縞木綿生産が徐々に浸透し、やがて農民層の生活に定着した時点です。
ことに磯足の起村は、天保頃(1830〜44)から、この地方における縞木綿生産の中心的な役割を果たした村です。
こうした豊かな財源を背景に、磯足は文化の興隆や治水事業に尽力したのでしょう。
磯足の行った業績のひとつに「木曽川堤の自普請運動」があります。
天明年間(1781〜89)になり起村付近の木曽川堤防が危険な状態になったため、尾張藩に修築の請願を出しましたが、財政難のため工事は行われませんでした。
そこで天明2年(1782)、磯足は藩の許可をもらい、木曽川堤防の改修工事を自普請で実施。
これは官営に対し、自分たちがお金を出し合って行う工事です。
自普請の許可を得た磯足のもと、起・富田・東西五城・小信中島の諸村が中心となり、日々、数百人が出て工事は行われました。
工事には約2年の歳月と1,700両の費用を擁し、起・小信境の五城川築留箇所を含め、上下流数百間の堤防腹付け嵩上げ工事は竣工しました。
これが契機となり、庄内川など各地で自普請が行われるようになりました。
磯足は自らこの工事を賛し、次のような歌を詠んでいます。

い満津くる 塘のうへに小松うゑて 君ケ弥千代のためしには見む
萬世に いや堅からし御民らが 君にむくゆと津きし堤は

尾張藩は磯足らの功績を賞し、賞詞と賞金、酒を授与しています。
加藤磯足は文化6年(1809)、63歳で没しています。

■参考文献
起町史 昭和29年 起町役場
尾西市史通史編・上下巻 平成10年 尾西市
 
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