KISSOこぼれネタ VOL.47 海津町特集号
中綱御番所の綱株岩呂久の渡しと呂久の新川付替工事(木曽川上流改修)

〔皇女和宮が御渡船〕
呂久の渡しは、中山道の赤坂宿と美江寺宿の間を流れる呂久川(現揖斐川)にかかる渡し場です。天正8年(1580)12月、織田信長の子信忠によって設けられました。
安土桃山時代、織田信長が近江の安土城に居所を移したころから、美濃と京都の交通が頻繁となり、赤坂・呂久・美江寺・河渡・加納の新路線が栄え、呂久川にも渡し場が設けられたのでした。これが江戸時代初期に整備された五街道のひとつ・中山道となり、呂久の渡しもそれ以来、交通の要所となりました。慶長15年ころには、呂久の渡しの船頭屋敷は13軒を数え、中でも船頭寄「馬淵家」には、船頭8人を置くほどでした。
呂久の渡しの川幅は平常時で90m、大水では180mにも及び、流れの速い難所でした。このため、水位が45%で馬が通行禁止となり、50%で川止めとなりました。
この渡しを特に有名にしたのは、文久元年(1861)、皇女和宮が14代将軍家茂のもとに降嫁のため、船渡しされてからです。
皇女和宮はこの地で対岸の馬淵孫右衛門の庭の美しい紅葉をみて、

 「落ちてゆく 身と知りながらもみじばの 人なつかしくこがれこそすれ」

と詠まれたが、国を救わんと身を犠牲にして下向された気持ちが表されています。現在は、和宮遺跡としてこの馬淵家の庭を「小簾公園」として昭和4年に開園し、歌碑などを建立しています。毎年、春と秋には祭礼が行われています。


園入口の和宮御遺跡碑と呂久渡船場跡標識

流祖西脇開風の詩碑

〔揖斐川廃川埋立工事〕
呂久川は、揖斐川の部分的呼称で、薮川との合流点よりやや下流附近をさします。
大正時代に至るまで呂久地先(岐阜県本巣郡巣南町)は、川幅が狭く湾曲もはなはだしく、その上堤防もなかったため、洪水により広大な区域に氾濫し、大きな被害を与えていました。
大正10年(1921)より始まった木曽川上流改修(大正改修)では、これらの氾濫を防止するため、特に湾曲の激しい平野井川合流点付近の呂久川を廃川とし、新川1500mを開削することとしました。両岸には新堤を築き、必要に応じた護岸・水制を施工。右岸は平野井川樋門を新設して締切り、逆水の防止を図りました。左岸は長護寺川を上流で犀川に切落して、締切りを行いました。
工事は木曽川上流改修で最初に着工したものであり、大正12年9月に掘削を開始、築堤も掘削土砂を利用して大正13年2月に着工しましたが、すべてが完了したのは昭和6年(1931)7月でした。また、水衝部の護岸及び水制は大正13年から昭和10年(1935)の竣工までに、護岸延長2080m、水制22箇所を施工しました。
この改修工事により、湾曲のはなはだしかった呂久川は直線化した揖斐川として生まれ変わりました。旧呂久川は従来より西の外れに2mほどの流れとして、名残りをとどめています。
揖斐川廃川埋立記念碑は、小簾公園より300m西の旧対岸の神明神社内に建立されました。


揖斐川廃川埋立記念碑・
呂久新川付替記念碑

※図:揖斐川・呂久地先の工事概要
「木曽三川治水 百年のあゆみ」より

■参考文献
木曽三川治水百年のあゆみ 平成7年 建設省(現、国土交通省)
木曽三川の治水歴史を訪ねて
  昭和60年 建設省木曽川上流工事事務所(現、木曽川上流河川事務所)
今昔中山道独案内 平成11年 JTB 日本交通公社出版事業局
 
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