KISSOこぼれネタ VOL.43 長島町特集号
北の大地の初等教育の先覚者・田鶴浦龍奘

未開の北の大地に夢を抱き、長島町民たちが北海道苫前郡古丹別に集団移住したのは明治29年のこと。その翌年の4月、移住民たちの強い要望で北海道へ渡ったのは、三重県長島町野亨寺三世住職・田鶴浦龍奘。野亨寺には父と長男・二男を残し、妻と長女だけを伴っての渡道であった。

タモの木が密生する原野。冬ともなれば零下20を越える厳寒の地の開拓生活は想像を絶したものだったのであろう。そんな日々を耐えぬくためには、やはり、宗教という心のよりどころが必要だったのである。明治30年6月16日、間口3間奥行5間の堀立小屋を建て、仮説教所を開設。これが現在の広円寺の前身。北の大地に浄土真宗の法灯が点ぜられたのである。

移住民たちにはもう一つ、大切な課題があった。子弟たちの教育である。こうした人々の要望に応え、田鶴浦は子弟を集め、仮説教所において算術読書を教えはじめる。これと前後して移住民たち学校建設に奔走。明治34年1月8日、簡易教育所設立認可を得て、古丹別10線5番地の仮説教所家屋(現在の広円寺)を教室に充て、「古丹別簡易教育所」として開校した。田鶴浦が教師となり、児童数27名といわれている。現在の古丹別小学校の前身である。その後児童数も殖え、説教所と同一家屋だった教室が手狭になったため、浅井林左衛門の納屋に移転、さらに林忠太郎の住宅の一部に教室を開いた後、明治34年4月には校舎を新築、「古丹別教育所」と改称し、独立した教育所としてスタートするのであった。古丹別の初等教育の先覚者として奔走した田鶴浦は、明治36年末頃、眼病治療のため帰郷。7年間の古丹別での暮らしに終わりを告げ、一同が見送る中、同郷の太田松次郎に背負われて去っていったという。志半ばで郷里へ引きあげた田鶴浦の胸中はいかばかりであったろうか。田鶴浦の業績は今も北の大地で語り継がれている。

■参考文献
  「広円寺開教百周年記念誌」「苫前町史」昭和57年苫前町発行
  「古丹別開基100周年記念誌」平成7年古丹別開基本100周年記念事業実行委員会発行
 
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