KISSOこぼれネタ VOL.41 上石津町特集号
薩摩藩島津家と高木三家

宝暦治水を成し遂げた薩摩藩島津家と水行奉行の高木家は、徳川幕府草創期に上石津町に関係していました。両家の間には直接的な関係はありませんが、島津家は、関ケ原の戦いにおける西軍の将として上石津の地を背進し薩摩へ退きました。高木家は、関ケ原の戦いにおける戦功により加増されて、上石津の地に知行替えとなり、共に上石津に関係しました。

西軍の将として西軍の本陣 石田三成軍の横に山を背負って陣取った島津義弘は、小早川秀秋の行動によって戦いの大勢が決したのを見て自らの進退を決し、雄略知略をもって徳川家康の本陣前を駆け抜け、活路を牧田路から西伊勢街道(現在の国道365号の旧道)にとって背進しました。

島津軍約1500名は、井伊直政や本多忠勝らの精鋭に追撃され、上石津の地に到着した頃は約200名、義弘の甥・島津豊久は重症を負って多良まで辿り着きましたが自刃しました。豊久の位牌を祀る瑠璃光禅寺は、西伊勢街道の勝地峠を越えて山間道を進んだ上多良樫原地区にあり、近くのカリン藪と呼ばれる地に豊久公墳墓之地碑があります。

島津義弘らは、多良から時山、江州の保月の山道を経て、水口〜信楽〜上野を経由し大阪城で人質となっていた義弘夫人らを救出して、堺より海路で兄島津義久の居城 大隈に辿り着いたのは10月3日、関ケ原の敗戦から18日目でした。その時の生還者はわずか80名ほどと言われています。

琳光寺(上石津町牧田)には、背進の殿をつとめて戦死した国家老阿多長寿院盛敦の墓が子孫によって建立され、その周囲には戦死者18名の自然石の墓標があります。宝暦治水の折、この戦いに参加した島津の子孫たちは、治水工事の合間に小さな石造りの五輪塔を作り、先祖の供養をしたと伝えられています。

一方、高木家は、関ケ原周辺の地理に明るい案内者として戦略上の功績が認められ、慶長6年(1601)時・多良に知行地を得て8月に入郷しました。以後、徳川幕府の美濃国役普請に携わり、宝永2年(1705)に川通り巡見の役目を仰せ付かり、幕末まで木曽川流域の水行奉行をつとめました。宝暦治水においては、一之手、三之および四之手の普請奉行をつとめましたが、東・西・北の高木三家に遺された10万件にのぼる膨大な文書は、江戸時代270年に亘って同一場所で同一の役目を果たした家の記録として、治水関係にとどまらず地域社会を理解する上で極めて貴重な情報として注目されています。



琳光寺阿多長寿院盛敦之碑と五輪塔

■参考文献
「武功夜話のふるさと」江南市発行
 
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