KISSOこぼれネタ VOL.37 岐阜県各務原市特集号
川とともに生き、川とともに暮らす人々

木曽川北岸に広がる各務原市は、川の恵みとともに成長を遂げた街。その一方、洪水のたびごとに被害を受けてきました。特に、いったん田畑が水をかぶると、田畑に砂利が入り、それを取り除くために大変な労力を必要としました。元の生産高を挙げるには10年余りもかかったといわれています。
このような実情のため、暮らしを田畑だけでまかなうことができず、女の人は絹機(きぬはた)を織ったり、若者は冬と春に舟乗り仕事に出て、収入を得ていました。昔から、木曽川沿岸の村には、木曽材の運送(筏流し)の仕事がありました。豊臣秀吉が天下を統一した桃山時代には、各務原東部の鵜沼集落に筏の中継地点(鵜沼湊)があり、筏流しは鵜沼の川村惣六に任されていました。しかし、天14年(1588)の大洪水で木曽川の川筋が変わったため、中継地点は鵜沼から対岸の犬山湊に移りました。

筏乗前株(いかだのりまえかぶ)とは、筏に乗る権利のこと。一日につき筏何乗というように、筏が割り当てられていました。鵜沼では、大竹太郎左衛門が犬山湊の筏株を持っており、そのもとで人夫が働いていました。
その一方、この鵜沼村には、川並番所が置かれていました。木曽川の舟運や筏の通行の支配権を一手に握る尾張藩が、通行する筏や舟を管理するする役所です。ここには洪水などで流失する尾張藩の御用材や商い材を拾い集めて番所へ連絡したり、盗木を監視する留木裁許人(とめきさいきょにん)をおきました。その役には川筋の主だった百姓が選ばれました。
しかし、彼らが洪水による盗木をいくら監視しても、事件が忘れられるまで流木に砂をかぶせるなど、品質のよい木曽桧の造作材や修理材としようとする人々の隠し木は後を絶ちませんでした。そのため、留木裁許人の仕事は多忙をきわめていました。

木曽川

■参考文献
 「各務原の歴史」各務原市教育委員会発行
 
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