KISSOこぼれネタ VOL.33 一宮市特集号
尾張藩の一元支配で管理された水利施設

 一宮市は、木曽川左岸に開けた繊維の町です。江戸時代は尾張藩領で、北方・小牧・鵜多須・清洲の代官所の管轄下に置かれました。
 慶長14年(1609)には、木曽川左岸50kmにわたって御囲堤が築造され、尾張国の洪水防御に大きな役割を果たしました。
 とはいえ、洪水被害を根絶できるわけはありません。堅固な御囲堤に守られた光明寺村(現在の一宮光明寺)の堤防上には神明社があり、なお、堤防決壊の危険な状態にあったことを物語っています。
 また、尾張藩領である一宮にも伊勢領がありましたが、これは、いわば堤防の安全を祈願するために伊勢神宮に奉納された田畑です。その収穫を経費と謝礼にあて、毎年、お祓いを挙行してもらっています。
 木曽川の豊かな水の恩恵を受けながらも、その一方で洪水に悩まされるこの地域一帯では、堤防は暮らしの命綱。堤防工事の経費を藩全体に賦課する堤銀の制度は、寛永5年(1628)のころから行なわれていたようです。この制度により、堤防工事の労役は、堤防に近接した村落だけで負担するべきものではなくなり、堤銀の出納を管理する尾張藩の責任において、工事は実施されることになりました。
 尾張藩では、毎年、春期の分については前年11〜12月、秋期の分については6月から7月の2度に、工事の必要箇所について申請書を受け付け、必要があれば工事を実施させました。
 享保8年(1723)には他の小河川や用水路を含めて堤の防護に関する触書を下し、堤防の芝をはぎとったり、竹木の根を掘ったりすることや、石をつめた蛇籠の竹を取ったり、堤防沿いには新規に道を付けたりすることを禁止し、違反者があれば、当人ばかりでなく、庄屋・組頭まで入牢あるいは、罰金という厳罰に処しています。
 用水支配権も同様で、藩の統一的支配権が強固でした。この水支配権は、江戸中期に強化されていったようで、寛永5年(1745)、宮田用水が整備されると、国奉行は、井筋(用水路)の川幅を変更しないこと、村々の用水は適宜、取水したならば杁の取水口を閉めること、水不足のときには、下流に水をくばる配慮をすべきで、その際、上流で水を盗む者があれば処罰をすること、また、旱ばつの田畑を救うために、広い地域に水不足を及ばさぬよう留意すべきこと、などを命じています。

 尾張では、給人(知行地を与えられた武士)の地方支配権が形式的には幕末まで続いたし、初期にこの権限はかなり強く、事実上の分割支配体制であったと考えられています。このような状態にも関わらず、尾張藩がひとつの大藩領としてまとまっていったのは、宮田用水に代表される重要水利施設を藩が掌握した点が大きかったといえましょう。
 そして尾張藩の水支配は、御囲堤の築造による支配とその延長としての木曽川からの大用水路取入口の設置とが、尾張藩の手でなされたことを、出発点とするものでした。

■参考文献
「新編一宮市史」上巻一宮市昭和52年発行
 
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