KISSOこぼれネタ VOL.31 八開村特集号
明治の中部財界で活躍した神野金之助重行
 八開村出身の神野金之助重行は、中部地区を代表する経済人です。
 殖産興業に励む明治時代、さまざまな産業育成や新田開発に情熱を傾けました。額田郡の菱池新田や豊川流域の神野新田の開発は、彼の代表的な偉業です。
 金之助は嘉永2年(1849)、愛知県八開村江西の生まれ。神野家の遠祖は大和国神野(奈良県吉野郡西吉野村神野)に住んだという伝えから「神野」を名乗ったものと思われます。戦国末期の天正年間(1573〜91)に現在の八開村江西に移り、以後、代々水難に堪えて田畑の開墾、農事に励み、神野家の基礎を固めてきました。
 父金平は尾張藩から「留木裁許人」(木曽川を流下する材木が風波で散逸した時、その材木を拾い集めるよう命じ、誰がどの木材を拾い集めたかを番所へ届ける役)を命じられ、帯刀を許されていました。商才も豊かで、母まつとともに商店や質屋などを手広く営んでいました。この両親の商才が、金之助の人生に大きな影響を与えたのでしょう。長兄の小吉が名古屋でも有数の規模を誇る紅葉屋の養子となったことも、金之助の中部財界での活躍の土台となっているようです。
 明治5年、名古屋県が愛知県となり大小区制が布かれると、金之助は24歳で、江西地区の副戸長、やがて戸長に任命されました。若くして名誉と信頼を得た金之助でしたが、名古屋の長兄を訪れる都度、新しく発展する町の様子や活気ある生活を体験し、時代の進歩から遅れている自分の姿にいたたまれなさを感じていたようです。
 明治9年、28歳になった金之助はついに名古屋へ。兄を助け、紅葉屋で働くことになりました。ところがその9月、兄は死去。金之助は兄の子吉太郎の後見人として紅葉屋の経営にあたり、中部財界人としての足場を固めました。

二年の歳月を要した菱池新田
 額田郡菱池村(現幸田町)の新田開発は、金之助の事業を代表する一つ。膨大な予算がかかることから政府も水路改修を見送った県有の沼池の払下げを受け、水路を改修し菱池干拓工事に乗り出しました。
 明治16年からまず沼池の干拓工事に着手。沼の底土はヘドロであり、何回埋め立てても地盤が沈下し、堤防も崩壊するという状況が続きましたが、水車を使って水を抜くことに力を尽くし、約二年の歳月をかけて竣工、菱池新田が実現しました。この新田は明治36年にいたって53町歩の田畑が整備され、作付面積の増加に従って、収穫量も増加しました。

人造石の創始者、服部長七の協力を得て開拓した神野新田
 豊川流域の神野新田は、かつて毛利新田と呼ばれていた時代がありました。銀行頭取を務める元毛利家の家老毛利祥久が、豊川流域の寄洲を苦難を克服し開拓したことから毛利新田と呼ばれていたのです。しかし、明治24年の濃尾大地震で壊滅状態に。その上、翌年9月の暴風雨の高潮で堤防は決壊家は押し流され多数の死傷者を出すにいたり、毛利新田は再び海原と化してしまいました。
 この話を聞いた金之助は、土木業者服部長七を伴って毛利新田を視察。大難事を覚悟の上で毛利新田を買い取り開拓に着手しました。
 服部長七は人造石(日本版コンクリ−ト)の創始者。資金に困っていた時金之助が援助した縁で、この大工事に協力し、直接責任者となりました。
 第一に着手したのは、毛利が失敗した堤防の改良です。服部は人造石の実力試験を行ない、人造石の強度を確認すると堤防の規模、構造を計画。それは打ち寄せた大波が堤防の上部までせり上がった時、上部の急な勾配で波は打ち返り、寄せ上がる次の波の勢いを消すという考え方でした。
 明治26年6月、工事に着手。幸運にもこの年の8〜9月には台風も来襲せず、工事は着実に進みました。しかし、この新田造成は筆舌に尽くしがたいもので、当時、37〜38歳の男盛りの金之助が50キロの体重まで、やせてしまったそうです。
 開発に3年の歳月を擁した新田は、神野の名にちなみ「神野新田」と名付けられました。しかし、そこは塩分を含んだ砂原で、すぐに作物が収穫される土壌ではありません。地ならし、道路・用水路の整備、塩分の除去、耕地整理など、地主、小作人ともどもの苦労は続けられ、年々収穫高は増加していきました。また、砂質の特質を生かした西瓜をはじめ瓜類は特産品となりました。
 これに並行し、塩分を含む新田の農業振興のため、農事試験場を設置し、愛知県の試験場の技師・農林学校出身者を招いて、農業従事者の指導をしています。
 この大干拓成功とそれ以後の発展こそ、金之助の命をかけた大事業であり、「神野新田」の名とともに永久に語り継がれる偉業だといえましょう。その徳をたたえ昭和5年、新田神社境内に「神野金之助翁頌徳碑」が建立されました。
 金之助が創立または経営した会社は明治21年設立し社長を務めた東海汽船会社をはじめ数多くあり、最も長くまた力を尽くしたのが明治銀行でした。他にも「福寿生命保険会社」「福寿火災保険会社」「名古屋電気鉄道会社」(現在の名古屋鉄道)などの社長を務めるなど、中部財界の中心的な役割を果たしていました。
 一筋縄ではとても成功できないと言われる経済界で金之助が成功できたのは、篤い信仰心と「曲がったことをしたら先祖に顔向けできない」という孝心。真心を貫き通し、さまざまな難事業を成し遂げた金之助は、大正12年2月20日、その生涯に幕を下ろしました。

■参考文献
「八開村史」八開村発行
 
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