KISSOこぼれネタ VOL.29 王滝村特集号
●御嶽信仰、その来歴

原始宗教から御嶽信仰へ
 王滝村は、御嶽山南麓に抱かれた山村です。標高3063m、その秀麗な姿を大空に浮かべる御嶽山は、信仰の山。豊富な森林資源と山々が涵養する水資源は、まさに、自然の源流。この悠久なる営みを畏敬し、信仰は生まれてきたのでしょうか。
 御嶽信仰の始まりは、すでに8世紀。まだ、集落さえも形成されず、わずかな人々が、狩猟で生活を支えていた時代。原始宗教の対象になっていたことが伝承されています。
 原始宗教から修験道へ。道教的な山岳信仰と密教の山林修業、神道の山岳信仰が渾然一体となったものが修験道です。平安時代から鎌倉時代にかけて全国的な広がりを見せ、羽黒山、白山、御嶽などが有名になりました。
 修験道はやがて民間信仰と結びついて新しい信仰を生み、室町時代の中頃には、御嶽山麓の村の道者とよばれる人々が集団的に登拝する風習が生まれました。この道者の集団は山麓の村々を中心に組織され、その指導的な立場にあったのが、黒沢(三岳村)の武居家、王滝の滝家でした。これが、御嶽信仰です。
 当時の御嶽登拝は、75日あるいは100日の精進潔斎を経た道者だけが行うものとされ、今日のように一般に開放されたものはありませんでした。

信仰の道を、広く庶民へ
 非開放的で地域に限定された御嶽信仰が、全国的な広がりを見せたのが江戸後期。天明5年(1785)、尾張国の覚明行者が黒沢に登山口を開き、その遺志を受け継ぐように、寛政4年(1792)、武蔵国の普寛行者が王滝口を開山、信仰の道は、広く全国へ、庶民へ開かれたのでした。覚明行者や普寛行者が提唱した御嶽信仰は、旧来の信仰を塗り替える画期的なもの。100日にも及ぶ精進潔斎を簡略化し、道なき道を切り開くことで、御嶽信仰は新しい時代を迎えたのでした。
 しかし、山内には巣山、留山などの立入禁止区域があることやみだりな登拝が御嶽の神威を犯す恐れがあるとして、当初は尾張藩からも道者からも許可されず、無許可のままの登拝強行や村の協力者を得ることで、ついに裁可されたのです。他国の富士山や白山の山麓の村々が、登拝講社で繁栄していたという時代性も、登山口開山に大きく影響していたのでしょう。
 以後、普寛行者の郷里である関東方面で、続々と講社が組織され、王滝口からの登拝者は年々その数を増し、村内には旅籠も整備。村の経済や生活、文化に画期的な影響を及ぼしました。
 現在の王滝村のテ−マが、御嶽山を中心とした観光開発であることからみても、その源流が、この時代に端を発しているといえましょう。
 夏のシ−ズンには16万人もの登山者を迎える御嶽山は、いまなお、その美しい姿を際立たせ、訪れる人々を魅了してやみません。

■参考文献
「写真集王滝−目でみる村の歩み」長野県木曽郡王滝村
「まさか王滝に!長野県西部地震の記録」長野県木曽郡王滝村
 
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