KISSOこぼれネタ VOL.27 墨俣町特集号
●世相を映す、美濃路と墨俣宿 −岐阜県墨俣町−

 江戸時代、美濃路は東海道と中山道を結ぶ脇街道として整備されました。墨俣宿も、三代将軍家光や朝鮮通信使、琉球使節など、さまざまな公人が利用し、栄華を極めたことは、KISSO27号2頁「江戸時代の墨俣宿と美濃路」の項でご紹介した通りです。
 では、庶民の旅はどのような状況だったのでしょうか。

 江戸中期以降の美濃路は交通量も増加して、庶民の通行も多くなったものの、大名や貴族をはじめとする公用の利用者に比較すれば、まだ少ないものでした。この理由は、幕府や領主の厳しい交通制限によるもので、旅をするためには庄屋の往来一札(身分証明書)が必要でした。これに加え、道中では盗人・ごまのはえ、悪雲助が横行し、旅をすることは容易ではありませんでした。

 しかし、商品経済の成長にともない、商人は町から村へ、村から村へとの販路を拡大。富山の薬売りと近江商人などをはじめ、多くの行商人が各地の特産品等を売り歩きました。これらの商人は定宿を足場に販売区域を広めていきました。

 墨俣宿では、享和2年(1802)の宿方明細書によれば、旅籠11軒と記してあり、商人はその中の旅籠を定宿として活躍していたのでしょう。
 また、文化年間(1804〜18)には大阪の松屋が講元となって、街道の宿々に呼びかけ、道中安心できる宿屋組合を作りました。

 墨俣宿では、河内屋伊三郎は浪花講の指定宿、蓮友講の定宿でした。年代が下るとともにこうした傾向は強くなり、万延元年(1860)には、河内屋、備前屋、伊勢屋、のと屋、近江屋、奈良屋など、地名を屋号にした旅籠屋が多くありました。
 旅籠が多いことは、それだけ利用する客があった証拠で、墨俣宿を通行した旅人の姿が想像できます。

 嘉永・安政年代(1848〜1860)になると、農村の生活は少しは豊かになり、庄屋から往来一札を受けて、社寺巡りを兼ねて諸国見物に出かけるようになりました。嘉永年間、上宿村(現在の墨俣町上宿)から女子ばかりで信濃国善光寺詣りをしています。安政年間には、西国三十三か所巡りに出かけた人もいます。

 このように庶民の間に社寺詣り、諸国見物が盛んになると、京都・奈良の名所旧跡巡り、伊勢参りばかりではなく、四国の金比羅参りもするようになり、大いに美濃路が利用されました。

 ※KISSO27号、1頁「墨俣輪中の成立」の項で、輪中成立期は、寛文8年としていますが、岐阜県安八町在住の郷土史研究家の白木晃敏氏から、これ以後ではないかと指摘がありました。白木氏によれば輪中成立は、寛永13年以前とのこと。詳細は『岐阜史学』88号に白木氏の論文が掲載されていますので、ご参照ください。

 このように、地方史や輪中成立史は、まだまだ研究余地が残されており、今後に負うところが多いのが現状です。
 KISSOでは、こうした声を参考に、取り組んでいきたいと思います。皆様のご意見・ご感想をお待ちしています。

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