三川分流(さんせんぶんりゅう)
明治政府(めいじせいふ)が招いたオランダ人技術者(ぎじゅつしゃ)ヨハネス・デレーケの指導(しどう)のもと、明治20年から44年にかけて木曽三川下流部の改修(かいしゅう)が行われ、三川分流がなされました。
木曽三川は複雑にからみあっていたから洪水の時はお互い悪い影響(えいきょう)を与えていました。だからこの3つの川を分流(別々に)する事が必要だったのだけど、ヨハネス・デレーケのおかげで成しとげられたのです。
ヨハネス・デレーケは、木曽三川だけでなく、日本各地の河川の改修を行いました。
へぇ〜、治水の恩人(おんじん)ってわけね。
三川分流による木曽・長良背割堤
三川分流工事
一本の川となっていた長良川と木曽川の間に
背割堤を築いて川を分けたのです 。
この工事でみんなが願っていた三川分流が実現したんだね。でも大変な工事だったでしょうね。
砂防(さぼう)工事
ヨハネス・デレーケは、山林の保護(ほご)や砂防工事も大切だと考えていました。各地でオランダ式の砂防施設が造られたのが、今もその原型をとどめている所があります。
分流工事によって締め切られた長良川、木曽川間の、船の通る門<船頭平閘門>(愛知県立田村)
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