木曽川上流河川事務所

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子供達にもわかる河川事業

宝歴治水(ほうれきちすい)

江戸時代の河川改修(かせんかいしゅう)工事の中でも有名なのが宝歴4〜5年(1754〜55)に行われた宝歴治水(ほうれきちすい)です。これは薩摩藩(さつまはん)による御手伝普請で、悲願の三川分流への第一歩でした。

宝歴治水概要絵画
先生

  御手伝普請(おてつだいふしん)とは、工事を諸大名に担当させてその費用の一部を負担させるもので、大名の力を弱めるための幕府(ばくふ)の政策(せいさく)のことだよ。  

薩摩藩士(さつまはんし)たちの苦労の難工事

 工事の指揮をした家老・平田靱負(かろう・ひらたゆきえ)以下940名の藩士(はんし)たちが、油島(あぶらじま)の喰違堰(くいちがいぜき)や大榑川(おおぐれがわ)の洗堰(あらいぜき)などの工事も行いました。
 この工事は約40万両もの多額(たがく)の出費、病死者33名、自刃者およそ50名という多くの犠牲(ぎせい)をはらいました。
平田靱負と治水神社

  平田靱負は多くの犠牲者(ぎせいしゃ)と出費の責任を負い、工事が終わった後に割腹(かっぷく)して最期を遂(と)げたそうです。この工事の犠牲者達のために治水神社が建てられました。  
先生
女の子
  岐阜市の改修では長州藩が工事を行ったのね。薩摩藩士や長州藩士の苦労と恩を忘れちゃいけないよね。  



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