ふじあざみ 第50号(3)
富士山に暮らす

田貫湖●農業用水確保のための人工湖
 朝霧高原の一角に位置する田貫湖は、もともと断層運動により隆起した古富士泥流のくぼ地に水が貯まった「狸沼」と呼ばれる天然の小さな沼地で、排水路を設けても地下水位が高く田畑にはむかない自然荒廃地でした。芝川沿地域の用水源は、ほとんどが富士山からの湧水が集まる芝川でした。しかし大正12年9月の関東大震災の影響で、芝川の流水量が激減したことにより用水不足が生じました。そこで昭和9年に県営用水幹線改良工事として狸沼を貯水池に作りかえるための調査をおこない、昭和10年から11年にかけて延長20m、高さ3m程の堤防工事を実施し、貯水面積27ヘクタール、貯水量706,000立方メートルの人工湖が完成したのです。
 その後も、戦後の食料不足に伴い各所で水田が増え、用水不足が生じたことなどから数回にわたり堤防の嵩上げ工事を実施し、貯水面積32ヘクタール、貯水量1,200,000立方メートルのほぼ現在の姿となりました。
 そして、現在田貫湖は農業用水等にくわえて、恵まれた自然環境のなかでのキャンプ、ボート遊び、ハイキング等に最適な行楽地であり、ヘラブナ釣りのメッカとしても全国的にも有名な富士山麓の観光スポットとなっています。(資料提供:富士宮市役所)


富士山に寄せる想い

富士山で集合 そもそも私が環境教育という仕事にたずさわるようになったのは、生まれ育った町の森が開発により無くなると聞き、その森の保護活動に参加したことがはじまりでした。その後ある自然保護団体に身を置き、北海道で勉強を始めました。故郷から遠く離れ、土地の暮らしにもなれた頃、偶然立ち寄った喫茶店で富士山の写真集を見つけました。私は生まれが山梨県であることもあり、毎日目にする富士山には「いつもそこにある大きな山」という他に特別な想いを持っていませんでした。しかし、その写真集のページをめくるごとに今まで感じたことのない望郷の念を感じました。それと同時に富士山にまつわる様々な思い出が次々と蘇ってきたのです。日々生活する風景の中にはいつも富士山があり、知らず知らずに自然の恵みだけでなく、多くの思い出をもらってきました。「私が毎日何気なく富士山を見ていた」のではなく「富士山が毎日私たちを見守っていてくれていた」のだと感じました。近くにいればいるほど気が付かない思いに、故郷を遠く離れてやっと気がつくことが出来たのです。私にとって富士山を想うことは故郷を思うことと同じなのだと思います。そして、この大きく、気高く、美しい富士山を大切にするとともに、恩返しをしていきたいと思い、再び富士山の麓に帰ってくることになったのです。
ふれあい自然塾  現在、私は田貫湖ふれあい自然塾でインタープリターという仕事をしています。田貫湖ふれあい自然塾は環境省が整備した第1号の自然学校で、富士山周辺の自然情報と富士山全域での自然体験を提供しています。様々な自然体験を通じて、人間と自然との橋渡しをするのが私達の仕事です。利用者にはレジャー目的の観光客も多く、こうした人たちにも楽しみながら自然や環境保全に興味や関心を持ってもらえるよう様々な工夫をしています。展示は見るだけでなく触って遊べるもの、体験を通して楽しみながら理解できるものを目指し、季節に応じた手作りの展示にも力を入れています。
 自然塾の活動テーマは、
1.「直接体験により自然の面白さ、神秘、畏れなどを知る」
2.「科学的な視点で自然の仕組みや関係性を理解する」
3.「自分が自然と密接な関係の上に生きていることに気付く」

の3つです。「自然とのふれあい」を通じて「人間と自然がいかに折り合いをつけて生きていくのか」という問題を自分のこととしてとらえ、暮らしの中で実践していくための土壌を作る事が重要な役割であると考えています。
 私達の活動が実を結び、多くの人たちが自然とのふれあいについて正しい知識と経験を得られるようになることで、富士山の環境、日本の環境、地球の環境がいつまでも保たれていくのだと思います。かつて私が心の風景を思い出し、自然に対する恩返しをしていくきっかけを富士山からもらったように、訪れる多くの人々が自然観を取り戻すきっかけを提供できるよう、富士山が見守るここ田貫湖で恩返しを続けていきます。

いわさきひとし ■プロフィール
 岩崎  仁
(いわさき ひとし)
田貫湖ふれあい自然塾主任インタープリター

自分たちが暮らす身近な環境をテーマに自然と人との間の橋渡しをしています。



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