ふじあざみ 第45号(2)

富士山麓に生きた太古の人々(旧石器時代から縄文時代草創期)
大鹿窪遺跡発掘風景 配石遺構
石鏃・尖頭器
押圧縄文土器(部分)              写真提供:芝川町教育委員会
●大鹿窪遺跡(おおしかくぼいせき=旧.窪A遺跡)の発見
 平成13年春、「日本最古の定住集落跡発見される」のニュースが新聞・テレビ等で大きく報道され全国の注目を集めました。場所は富士山西麓の富士郡芝川町大鹿窪、県営中山間地域総合整備事業柚野の里地区圃(ほ)場整備事業に先立つ埋蔵文化財発掘調査(H.13.11~H14.3)によるものでした。
 調査によると、遺跡は、今から約11,000年前の縄文時代草創期(そうそうき)のもので、当時の人々の生活の跡が大変よく残されていました。
 集落には縄文草創期以前の噴火による溶岩が堆積していて、この地形を風よけに利用するように住居跡と考えられる竪穴状遺構(たてあなじょういこう)が馬蹄形(ばていけい)に並びます。また、石を集めて料理をした跡と思われる集石遺構(しゅうせきいこう)、お祭りをした跡と思われる配石遺構(はいせきいこう)等が発見されています。
 同時に、当時の人々が使った生活用具も多数発見されました。物の煮炊きに利用した土器、この土器には押圧縄文(おうあつじょうもん)と呼ばれる縄でつけた文様があります。石で作った道具には、動物を狩猟するときに使った、槍の先につけて使う尖頭器(せんとうき)、弓矢の先につけた石鏃(せきぞく=やじり)が見つかっています。この他に、木の実や動物の肉をすりつぶすときに使ったと思われる石皿(いしさら)や磨石(すりいし)も多く出土しました。
 これらの道具は移動する生活には重く、持ち運びに不便であることから、ある期間定住したと考えられています。今まで、こうした形の集落跡は7,000年前頃になって生まれたと考えられていましたので、新しい発見に大きな話題を呼んだのです。
●富士山周辺の旧石器時代(後期旧石器時代:約35,000~10,000年前)
 今からおよそ8万年前に、小御岳火山の南側斜面から始まった古富士火山の活動は、爆発的な噴火を繰り返し、多量の火山灰と火山礫を吹き上げました。当時、氷河期であった富士山の厚い雪や氷は高温の溶岩によって溶け、噴出物と混じって泥流となりました。また、高く吹き上げられた火山灰は、風で東に運ばれ、関東平野に積もり、関東ローム層といわれる層をつくりました。
 この頃はウルム氷期(約7万年前~約1万年前)と呼ばれる、最後の氷河期でした。その一番寒かった時期は1万8千年ほど前で、気温は今より7~8度低く、海面も100m下がり、日本列島は大陸と陸続きであったとされています。
 こうした厳しい自然環境にもかかわらず愛鷹山麓、箱根山麓を含む富士山周辺では、旧石器時代から人々が住み、広域にわたって活動していたことが知られています。愛鷹山麓からは後期旧石器時代(35,000~10,000年前)、およそ2万9千年前のものと見られる石器が見つかっています。
 富士山周辺の旧石器時代の人々は、ある時には噴煙を上げる富士を眺め、またある時には噴火の猛威にさらされながら、厳しい寒さの中を少人数で助け合い、移動をつづけながら、狩りと木の実や植物の根などの採集により生活していたと思われます。遺跡から発見される石器の中の黒曜石は、長野県の霧ヶ峰や和田峠で採取されるもので、当時の交流・交易の広さを示します。
 やがて長い氷河期も終わりに近づき、1万4千年ほど前からは氷が溶けて海面が上昇し始め、現在の日本列島の形がほぼ残されました。活動を続けてきた古富士火山も、その噴出物で高さおよそ2,700mにまで成長しました。
●縄文時代
 縄文時代は、草創期から始まって、大きく6時代に区分される、約1万年に及ぶ長い時代です。旧石器時代も縄文時代も共に狩猟採集の時代ですが、縄文時代になると次第に大型化する集落跡や墓地の存在、また持ち運びに適さない土器や石皿等が出現します。これは、人々が定住型の生活を始めたことによると思われます。
●縄文時代の始まり(草創期)大鹿窪遺跡の頃
 大鹿窪遺跡のあった縄文草創期(11,000年前)の頃は、ウルム氷期も終わりに近づき、気候も温暖になり、植物も広葉樹が増え木の実も大量に採集できるようになったと思われます。動物も、大陸と地続きであったころ移動してきたナウマン象、オオツノジカ等の大型ほ乳類は遠い昔に滅び、ニホンジカやイノシシ、ウサギ等の小型獣が主な獲物であったでしょう。こうした素早い小動物を捕らえるため、弓矢による狩猟も盛んになりました。
 この当時の富士山は1万4千年前頃から始まった新富士火山の活動期でした。この活動期の溶岩は粘性が小さく、山腹を覆いながら山麓末端部まで流れました。また火口が古富士火山の火口付近であったため山頂をさらに上に伸ばし、現在の富士山の形に近づいて行きました。
 大鹿窪遺跡の人々は噴火におびえながらも、この土地の豊かな食料や清冽な湧水に惹かれ、移り住んだものと思われます。複雑な凹凸のある溶岩の地形は、住居や焚き火の風よけになったり、また、動物を待ち伏せしたり、狭い迷路に追い込んだりするのに役立ったことでしょう。また、気孔の多い溶岩はドングリなどの木の実をすりつぶすのに適しています。このように、人々は広大な富士山麓で、その環境の厳しさと恵みをうまく生かし、日々の生活を送っていたと考えられます。
 お祭りをした跡と思われる配石遺構では、現在の私たちのように毎日富士山を眺め、いつまでも恵み豊かな富士山であることを祈っていたのかもしれません。
参考文献
 富士山の自然と砂防(国土交通省富士砂防事務所)
 富士山のなりたち(富士宮市教育委員会)
 富士(中学校社会科副読本/H.10版)(富士市教育委員会)
 大鹿窪遺跡(芝川町教育委員会)
 芝川町役場ホームページ
写真提供:芝川町教育委員会