ふじあざみ 第37号(3)


富士山に暮らす
山は富士、花は橘、男は次郎長と唱われる清水次郎長。その義理と人情に彩られた暴れぶりは様々な物語でお馴染みですが、この次郎長親分と富士山の暮らしにはどんな関係があるのでしょうか?社会貢献に奔走する次郎長の後半生を紹介します。
 清水次郎長こと山本長五郎は文政3年(1820年)元旦、清水市に生まれました。彼が生きた時代は、徳川幕府が崩壊し、明治政府が成立したまさに激動の時期でした。
 彼の前半生は物語のように、博打と喧嘩に明け暮れ、子分の信頼篤い大親分でした。
■咸臨丸事件
 次郎長49歳の時、ある事件が起きました。明治元年(1868)9月18日、幕府の軍艦であった「咸臨丸」が新政府の軍艦の攻撃を受け、清水港内に多数の死傷者が投げ出されました。そこで次郎長は、凋落の一途である幕府側の乗員を、ある者は介抱し、密かに逃亡させ、ある者は「壮士の墓」を建て手厚く葬りました。
 この事が官軍に知れ渡ると「死ねば仏だ。仏に官軍も賊軍もあるものか」と啖呵を切ってみせました。
 これを聞いたのが江戸無血開城の功労者である山岡鉄舟。維新後、静岡県の官職についていた山岡は次郎長の行動に心腹し、正業に就くように勧めました。次郎長もまた、17歳違いの山岡に信頼と共感を寄せ、山岡の言う社会貢献事業に参加するようになります。
■富士山南麓へ
 さっそく、明治2年から、有度山(清水市)の開墾、三保(清水市)塩田開拓、巴川(清水市)の架橋などの地元事業に次郎長は着手し始めました。この頃、静岡県下では、旧幕臣による開墾事業が進められ、牧ノ原の開墾は茶所静岡の礎を築くものでした。
 明治8年になると次郎長は子分達や、静岡監獄江尻支所の受刑者を正業に就かせようと、同じく開墾事業が行われていた富士山南麓に向かいました。
 開墾地は標高350m付近で、当時の富士山南麓畑作地の上限くらいでしたが、川のない、水なし地帯でした。水を確保するため、井戸を掘っても水が出ない。水不足の中で荒れ地と格闘する日々が続き、脱走する者が出始めました。これによって子分や受刑者の更正には挫折しますが、かわって地元の人たちが加わるようになると、開墾は順調に進み、明治17年には約76町3反(約78ha)の畑作地が、現在の富士市大渕に完成しました。
 そして同年2月、次郎長本人が博打の咎(とが)で投獄されると次郎長の開墾そのものは頓挫してしまいます。しかし、水なし地帯の荒れ地を開墾した功績は大きく、後にこの一帯は次郎長町と呼ばれるようになりました。
参考資料:『次郎長翁を知る会』のホームページ
http://jirocho.org/index.html
 
日本エルダルト(株)代表
山崎 富士子 氏
静岡市生まれ。幼い頃から機械の扱いが得意で、女性ドライバーが数少ない時代に、自動車の運転も実用No1に。昭和50年、夫の死去に伴い同社の社長に就任。現在に至る。
 昭和43年には富士山大沢源頭部(御中道付近標高2,200m付近)でボーリング調査中に落石事故を経験。

■基礎地盤発掘調査
 私が仕事で富士山と関わるようになったのは、昭和43年富士山大沢崩れ源頭部の基礎地盤発掘調査の掘削からでした。もともと静岡生まれですし、富士山には愛着をもっていましたが、地元の人間は富士山を遠くから眺めているだけで、登るものじゃないと、登ったのはこの時が初めてでした。
 ちょうどあの当時、マスコミにも「富士山が崩れる」なんて取り上げられていましたし、子供の雑誌などにも、富士山は二つに割れるなんて書いてあったり、社会的な感心も高くなりはじめた頃でした。
 作業はまず、ボーリング調査に必要な機材を源頭部まで運びあげることからはじめました。現在はヘリコプターで運搬しますが、当時は人力の時代。もちろん、私達ではどうにもならないので、「強力」(ごうりき)の方にお願いして、その方一人で1週間かかりました。御中道は、歩くだけなら苦にならないのですが、一番困ったのは電話。私など電話のある場所までの4kmの道のりを毎日2往復していました。
■お助け小屋での生活
 10月から11月までが作業期間になるのですが、その間、寝泊まりしていたのがお助け小屋です。富士山ではその時期ともなると寒くて、小屋は隙間だらけで、外と温度が大して変わらないのですが、私は割りと平気な顔をして寝ていました。後に新聞社の方が取材であそこに滞在したそうですが、枕元においてあったジュースが朝起きたら氷っていたとかで、早々に退散してしまったようです。
 飲み水はお助け小屋の雨水を貯める桶を使っていて、ボウフラが湧いていました。だから、使う時はいつも桶をドンと叩いて、ボウフラが底に沈むのを見計らって、水をすくって飲んでいました。また、その水でご飯を炊くのですが、あまりにも高所なので、どうしても上手く炊けませんでした。
■落石で頭に怪我
 作業現場は5cm大の小石がビュンビュン飛んでくるような所でした。石が霜で持ち上げられて、下から風が吹くと降ってくるのです。現在なら安全を考えて、周囲の岩壁を全てフェンスで囲むのですが、当時のことでそんなわけにもいかず、自然が一番の防備ということで、早いうちに作業を済ませてしまおうということになったのです。そんな中、私の上に石が落下してきました。
 事故の被害は私一人でした。ヘルメットを被っていたら、また違っていたかもしれませんが、「強力」の方に貸してしまっていたので、他の物を替わりに被っていました。傷跡は今でも跡があって、あと5ミリとか1センチとか深かったら命を落としていたと思います。
 みなさん驚かれるのですが、当時45歳ぐらいでして、事故の後、自分の足で4kmの御中道を歩いて下山し、付き添う人もいなかったので、一人で静岡の家へ自分の運転で帰りました。タオル半分くらいの出血があったのですが、あとになって皆、血が出たから助かったんだなんて笑っていました。
 結局、入院することも、手術も縫うこともせず、一週間、家でゴロゴロしていただけで治ってしまいました。現在、骨が少しへこんでいるぐらいで、後遺症もありませんし、あんまり元気なので、あの事故の方ですか?なんて驚かれることもあります。
■私達の山だから
 ああいう事故があっても、懐かしくて、あそこにはもう一度行ってみたいと思っています。大沢崩れで富士山は傷を深めている、私の名前も富士子ですし、私達の山だから「守っていかなくちゃ」と感じています。

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