ふじあざみ 第35号(3)

富士山に暮らす

気ままな神、富士山が怒って人々の生命や財産を奪い取ってしまう。そんなことのないように山麓の人々は信仰をつくりだし、富士山そのものを御神体とした浅間神社や、さまざまな祭りが生まれました。地域だけでなく、全国に広まった浅間神社と信仰について探ってみましょう。

浅間神社 ■浅間神社の起源
 「せんげんさん」の愛称で地域の人々に親しまれている浅間神社。そもそも浅間神社は、富士山そのものを御神体とした信仰に始まったもので、その典型を富士宮の山宮浅間神社に見ることができます。
社伝によると、大同元年(806年)に坂上田村麻呂によって現在の浅間神社に遷宮され、以後、小高い丘の上から富士山を遥拝する信仰が生まれてきました。
■「あさま」と「せんげん」
 「浅間」は現在「せんげん」と読んでいますが、古くは「あさま」と読んでいたようです。「あさま」の呼び名の起源は色々な説があり、伊勢の朝熊(あさくま)社が元とするもの、あるいは早朝に富士宮の湧玉池の水面から霧が立ちのぼる様を朝雲と名付けたのが転じたとするものなどがあります。「あさま」の意味として有力なのが、マライ語のアサ(煙)からきているという説で、浅間山、阿蘇山など、煙を噴く山にあてはまります。「せんげん」は、単に浅間を音読したものにすぎないようです。
■神仏習合による浅間信仰
 霊験あらたかな神として国中の人々が讃え、各地に浅間神社が建てられました。他社との合併などで浅間神社という名がはずされた神社も含めると、その数は1,900社に近いとも言われています。浅間神社の発展で忘れてならないのが修験道との結びつきです。神道と仏教の習合思想も発達していきました。村山浅間神社には、浅間神社と大日堂、つまり神と仏が並んでまつられています。神を信ずる一方で死をおそれ、仏にすがる日本人の性格にうまく溶け込んだと考えることもできます。
■浅間神社と祭り
 富士山の尽きることのない慈愛を受け継ぐ岳麓の神事もさまざまです。浅間神社の伝統の祭りの代表に、富士宮市の「富士山本宮浅間大社流鏑馬(やぶさめ)祭」があります。社伝によると、建久4年(1193年)5月、源頼朝が富士裾野で巻狩りを行った時、武将たちを率いて浅間大社に詣で、流鏑馬を奉納したことに始まるとされています。5月5日の本祭には、数々の神事のあと、槍武者、弓武者、鎧武者、神馬、神職、そして5人の射手たちが流鏑馬入りと称して町内を練り歩き、間行事が進んだあと本乗りに移り、5人の射手が150メートルの馬場を東から西に走り抜けながら、2つの的を次々と当てていきます。 富士山本宮浅間大社流鏑馬(やぶさめ)祭
▲流鏑馬(富士宮市)
富士山に寄せる想い 災害ボランティアコーディネーター富士連絡会
渡邊 敏正 氏
■私と災害のかかわり
 災害には、地震、噴火、津波、洪水、山崩れ、土石流等々、自然災害、人的災害があります。私自身が体験した災害をいくつかご紹介します。
 まず、昭和20年のB29の静岡市空爆です。全市に焼夷弾が雨霰のごとく投下され、当時若干12歳だった私は仲間とともに焼死体や重傷者を見ながら、焼け跡のかたづけなど、今で言うボランティア活動をしました。
 次に、昭和32年、愛知県の三河湾で、高潮災害による海岸堤防決壊の災害復旧を完了し、老漁民夫婦に涙を流してお礼を言われたことは忘れられません。
 次に狩野川台風です。川の中心は堤防より1m位高い水位で水面を矢のごとく家屋が流れ、屋根の上から助けを求める叫びを聞き、何もできない自分がみじめに思えてなりませんでした。その後、狩野川放水路完成と災害復旧に昼夜を忘れ没頭したものです。
 次は昭和40年、天竜川の支流、小渋川の上流、長野県大鹿村の局地的豪雨による山崩れです。部落の壊滅による治水、利水のダム建設に携わり、無事ダムを完成させました。
 昭和59年、長野県西部地震による大滝村の地滑り災害では、災害復旧に応急仮橋の災害救援に、資材、図面、取扱い方法を手配しました。災害復旧に必要な要素を、いつ、どんな時でも使用できるように整備しておくことの大切さ、災害対策に必要な資機材を十分把握することの肝要さを、この時痛切に感じました。
 最後に、昨年の吉原海岸での水難事故ですが、ついに発見できなかったことが心残りでした。同級生と思われる子供が船の上から花束を投下しながら叫んだお別れの言葉は、狩野川台風の時に助けを求めた叫びとダブって非常に悲しくなりました。
■郷土の山 富士山
 火山の一生は数万年~数千万年と言われています。人間は長くて100年です。火山の一生にくらべて人間は瞬時の命です。富士山のふもと、毎日仰ぎ見る郷土の山、富士山が誕生しなければ、私達の町富士市、富士宮市は存在しなかったでしょう。富士山は大きな恵みを私達に与えてくれていると共に、噴火・雪代・土石流災害など、昔から恐れられています。だからこそ、富士山の歴史と文化を知り、私達が富士山とともに安心して暮らせるように富士山に学び、富士山をもっと知り、防災に役立てる必要があると思います。国土交通省富士砂防工事事務所で作成された『富士火山防災ハンドブック』は、富士山を火山という側面から知るためには、非常に有効な資料となっていますので、防災活動の資料としてご活用くだされば幸いです。
■災害ボランティア
 コーディネーターについて
 発災直後には自分自身、家族や地域の助け合いでその後の被災地の外からの支援が必要となり、駆け付ける大勢のボランティアの力を活かすには、受け入れ側である被災地側の体制づくりが不可欠です。災害ボランティアコーディネーターは災害時のボランティア活動を、混乱した状況の中でも迅速かつきめ細やかな、そして効果的なものとするために必要となるのです。行政は平等を旨として指示命令をし、対策を立てると思いますが、私達ボランティアは、支持、ささえを持つ気持ちで災害時のニーズに応えていく黒衣でありたいと考えます。

 防災は人命が第一です。命があってこそ財産が守れるのです。まず我が身を守り、家族を守り、そして、それが地域を守ることにつながります。防災情報を地図などに書き込むことも防災の手段のひとつです。例えば、道路、河川、避難場所、町丁目境、地番、標高、集積所、消火・救助施設、医療・福祉施設、被災箇所、規制箇所など、情報を書き込むことで、いざと言う時に活用できます。東海地震や富士山の噴火時には、広範囲の被害が想定されます。ですから、阪神淡路大震災の時のような、全国からのボランティアは望めないかもしれません。だからこそ、富士ボランティア連絡会会員、そして地域の自主防災委員と住民ひとりひとりが、この重大な処理に当たらなければならないのです。
(「富士市災害ボランティア連絡会」での講話の内容を編集したものです。)

■渡邊 敏正氏 プロフィール
 昭和7年、静岡市生まれ。昭和26年、建設省に入省。昭和62年(社)中部建設協会を経て、平成8年災害ボランティアコーディネーターとなる。平成10年新日本設計(株)、(株)建設システム、現在に至る。

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