ふじあざみ 第35号(11)

対談「絵の立場から見た富士山、文の立場から見た富士山を語る」■作家/村松友視氏 ■画家/橋本明雄氏
司会: 6回目ということで、特色や特徴などコンクールの現状を踏まえてお話していただきたいと思います。
村松: 応募作品全体のレベルが上がっていますので、そこを突き抜けて受賞するのは難しいハードルになってきたと感じます。例えば今回手紙部門、中学生の部で最優秀賞の作品で「初めて眼鏡を買った。」という書き出しがあり、なんだろうと思ったら、眼鏡をかけたとたんに物の見方が変わる、物を見る状況によって全く違うことを覚えていく。これが小説だったら、もっといやらしく「長年自分に似合う眼鏡がなかったので、買おうともしなかったが」とか「ようやく」なんてつけくわえてしまう。それが「初めて眼鏡を買った。」と書く作家もいるわけで、これはもう文章の達人ですね。こんな切れ味の良い書き出しと眼鏡という小道具が文章の中で生き生きとしている。余計なことは書くなと教えられました。
 初めて眼鏡を買った。鏡の前でニッと笑ってみた。かわいくないと思った。似合ってないと思った。ブスにますますみえた。
 眼鏡をかけて、外に出た。富士山をみた。いつも見ている富士山と違うようにみえた。山肌がはっきりみえた。白いドームもはっきりみえた。
 二年前に初めて登った事を思い出した。岩だらけで、上に行くほどに息が苦しくて辛く、長い道のりだった事を。
 御殿場に行った。富士宮から見ている富士山とは違った。宝永山の位置が違う。大沢くずれの位置も違う。いつも見ている富士山ではなかった。全く別の山のように見えた。富士山はこんなに角度によっては違うということを再確認した。富士宮からの富士山が一番美しくみえると思った。けれど、御殿場で見た富士山もハッとする発見があった。山も人もいろんな角度からみなくては全体の姿がわからないと思った。
 眼鏡をかけてまたニッと笑ってみせた。さっきのわたしよりずっとかわいくみえた。部屋の窓から見たあなたは、りりしく私の眼鏡にも写りました。
▲中学生の部
山中 智美さん
なるほど、先生が教えられてしまったということですね。
村松: はい。例えば泥棒を警官が追いかけてるのを見て、普通のひとは「逃げるかな、捕まるかな」と思って見ますが、陸上選手だったら「走る姿勢が悪いな」とか思って見てしまう。つまり、物の善悪ではなく、同じ景色でも見る人の目によって違う、それを眼鏡を使って教えてくれました。我々は見慣れた風景には油断しています。見慣れているがゆえに、そこから立ち上がっているものが見えない、見ようとしない。そういうことを含めて「いつもの風景」という言葉にしている。そんな言葉遣いを教わる、基本を考え直させられる作品が出てきています。これは、技術的にみたら、すごく高いレベルなんです。
橋本先生はどんなご感想をお持ちになりましたでしょうか。
橋本: 感想の前に、この催しが本当に素晴らしいことを少し自慢したいと思います。市の教育長さんのお考えで、3,500点にものぼる応募作品の全てを、この文化会館の展示場に展示しています。これだけの作品を飾る展覧会はこの展覧会だけだと思います。それだけ、皆さんが出してくれた作品を大事にしているということです。審査のしかたも、厳正に、不公平なく、正しい目で選ぶのは大変難しいですが、26名の先生方が逐次丁寧に見て選んでいます。第1次、2次、3次とだんだん人数を少なくしていきます。最終審査では松村先生を中心に投票で決定します。これだけのプロセスを踏んできちんと審査するのは、他のコンクールではあまりなく、自慢できると思います。審査委員長のお話のように、作品が年々向上しています。作品については、後で作品を見ながら具体的に話したいと思います。
廣橋 奈央子さんの作品
▲幼児の部
廣橋 奈央子さん
その具体的な部分なんですが、私が見た中ですと、いろんな材質を使っているなと驚いたんですが。
村松: 貼り絵のようなものもあります。貼り絵が非常に多い年とか、油絵が多いときとか、わりと傾向があります。では近年の傾向である「擬人化」についてお話ししましょう。富士山を困った時に語りかける相手にしたり、慰めてくれる存在にしたり、あるいは一緒に遊ぶ存在にしたり、文章の面でも、絵画の面でも、富士山を擬人化して描いたり、書いたりするケースが重なっています。
橋本: いわゆる擬人化というのは、人でないものを人に例えて表現する方法です。富士山を人間としてとらえて表現するという。これは絵部門、幼児の部で最優秀賞に輝いた作品ですが、まさしく両手を上げて子供たちを抱えている姿を描いています。目や口があったり、個性的で大胆な作品があります。富士山を自分の心でとらえた見方ができる、素晴らしさがあります。
村松: 他のコンクールですと、また我がコンクールとはスタイルが違いますよね。
▲村松友視先生
▲橋本明雄先生
橋本: 他のコンクールの作品を見ると、本当に素朴な、飾りのない、素直な作品が割合と賞に入っています。
村松: 富士宮のコンクールは、そういう作品ばかりではありませんが、すごく飾る面も多いですよね。



富士山というのは、なだらかで、シンプルな山ですから、絵や言葉で表すと、どうしても飾ってしまう傾向が出ているんでしょうか。
村松: そうですね。外国の方が応募してきた文章の作品を見ると、「ニッポン」て言葉が必ず入っています。日本の象徴として書こうとする。
やはり、見る場所場所によって自分の富士山がありますね。
村松: 富士山がまったく見えないところの人たちが想像する富士山は、もしかしたらものすごいインパクトのある富士山かもしれない。遠くの方の人にとっては、富士山というのは象徴的な存在で、山とは違うかもしれない。
わたしの富士山へ
 富士山を手のひらにのせてみた。わたしのいつも見ている富士山は両手をさし出すとわたしの手の上にちょこんとのる。これはわたしだけの富士山、わたしだけのもの。
 夏の夜、まどからふじ山を見てみるとゆらゆらゆれる明かりが見える。一列になって登っていく。そっと手のひらに富士山をのせるとみんなはわたしの手の中を頂上めがけて登っていく。
 今年の夏、おばあちゃんが頭の手じゅつをした日、いつも富士山を見る土手へ行った。でもこの日だけは富士山を手のひらにのせなかった。そのかわりにそっと富士山に手を合わせた。富士山、わたしのお願いをきいてくれてありがとう。
▲小学生高学年の部
 望月 真紀子さん
逆に毎日見えるところに住んでいると、普通になってしまう。だからこそストレートに見ないで遠回しに見ている。そういうのはやっぱり、子供なりに成長していってるということなんですかね。
村松: 成長しているんです。この望月真紀子ちゃんの「私の富士山へ」という作品の、いつも富士山を手のひらに乗せて見ているけど、おばあちゃんが病気をしたら手を合わせて拝んだっていうね。遠くで富士山を拝むのとはまた違った、身近に感じる感覚ですよね。これもすごい作品だと思いました。
橋本: 擬人化の話から少しはずれましたが、擬人化についておもしろいことに作文では高学年になるに従って擬人化の例を引く例が多くなるんですね。絵は逆で、幼児の作品の方が擬人化が絶対多いんですが、先生いかがですか。
村松: 絵の場合は幼い人が富士山を自分の遊び相手とか、願いを聞いてくれる存在として描くんですよね。文章の場合は、多くの時間を過ごしてきた人が、自分の気持ちが弱気になったときに慰められる大きな存在としての擬人化だと思います。絵部門、低学年最優秀賞の磯野麻友さんの作品ですが、インタビューで大きい富士山が好きだとおっしゃっていました。この絵は大きい富士山を描いていて、それが幼児の感覚で描くので、たいへん美しく、夢がある。作者の夢がぎっしり詰まっていると思います。しかも、全体的に温かい色でまとめられています。装飾型の素晴らしい作品です。
では、最後に今後の課題やアドバイスなど、村松先生の方からまとめていただけますか。
村松: 要するに、こう書くべきだということは絶対にあり得ないわけです。何にもとらわれない、縛られない、自由な発想で我々を驚かせてくれる作品をそのまま私たちへぶつけてほしい。そうすれば最初の頃のような時代の躍動感が出てくるじゃないでしょうか。このままだと、技術ばかり勝ってきて、発想が少し沈んでくる傾向になりかねない。本来の自分が何を本当に感じたかを考える、もう一回小学校の低学年の頃の自分に戻って、自由奔放に、骨太なものを作品にぶつけてほしい。そうすると、僕なんかが理想とするものが出てくるんじゃないかと思います。
磯野 麻友さん
▲小学生低学年の部
磯野 麻友さん
なるほど。ぜひ来年も皆さん、発想を豊かにして作品をまた出していただきたいと思います。それでは、村松先生、橋本先生、また来年もよろしくお願いいたします。

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