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孝行猿物語
三峰川資料館

孝行猿物語

  (文中「長谷村」=現在の「伊那市長谷」)
 
長谷村 「孝行猿物語……過去→現在→未来へと伝 わる親を思う心」

孝行猿物語のまんが

孝行猿物語
 長谷村には昔から次のような民話…孝行猿物語が伝わっています。
 村に勘助(かんすけ)という腕利きの猟師が住んでいました。冬も近付いたある日、勘助は火縄銃を手に猟に出たが、その日は不猟で兔(うさぎ)一匹捕れま せんでした。諦(あきら)めて帰ろうとしていた時、木の上に大きな猿が一匹居眠りをしているのが見えました。気が進まなかったが、他に獲物もないため手ぶ らで帰るよりはよいと思い、一発でこれを仕留めました。後ろの山路で悲しげな猿の声が聞こえましたが、あまり気にも止めないで家路へと急ぎました。家に戻 り、仕留めた猿の両手両足を縛って囲炉裏(いろり)端に吊(つ)るすと、皮は翌朝剥(は)ぎ取ることにして、夕食もそこそこにして寝てしまいました。
 夜中に物音に気付いて目を覚ますと、隣の部屋との隙間(すきま)がかすかに明るく見えます。戸の隙間から覗(のぞ)いて見ると、どこから入って来たの か、囲炉裏の周りに子猿が三匹います。一匹が囲炉裏の火で手をあぶっては、四つん這いになった二匹を踏み台に、吊るされた猿の傷口に手を当て温めていまし た。勘助が撃(う)ち殺した猿の子供たちが、親猿を何とか生き返らせようとして、囲炉裏と親猿の間をしきりに行き来していたのでした。
 「ああ!昨日帰りに鳴いた猿は、この子猿たちだったのか!」どうにかして親猿を生き返らせたいと、夜中に一生懸命に手当している子猿たちを見ていると健 気(けなげ)に思えてなりませんでした。「私は、生計を立てようとして、何故(なぜ)こんな情けないことをしてしまったのか」と先非を悔いました。子猿た ちは、夜明けとともに山へ去っていきました。
 親子の愛情に深く心を打たれた勘助は、夜が明けると、親猿を背負って裏山に登り、大きな一本松の木の根元に葬(ほうむ)って手厚く母猿の霊を慰(なぐ さ)めました。また、祠(ほこら)を建ててせめてもの心尽くしとしました。勘助は、猟師として生き物を殺してきた過去の非を後悔して、猟師を廃業しまし た。そして、頭を剃(そ)って一心不乱の念仏者になり、諸国行脚(あんぎゃ)の旅に出たといいいます。
  (「長谷村誌」などによ る)

孝行猿の 話の原文
 今から250年以上も昔に、信州の入野谷(いりのや)村(現在の長谷村)に伝わる孝行猿の話が、紀州藩(現在の和歌山県)に住む学者 神谷養勇軒の耳に 入りました。神谷は、藩主徳川宗将の命を受けて説話集『新著聞集』全18巻を書いていたので、
 この話を第2巻「慈愛篇」の中に入れて紹介しました(寛延2年・1749年)。江戸時代半ばに、この本で紹介されたことがきっかけとなり、この話が日本 中へ広がっていったらしい。新著聞集の原文には次のとおり載っています。
 
猿子 親を療して人心を感発す
 
  信州下伊那郡入野谷村の者、冬の日、猟に出、不仕合(ふしあわせ)にて帰る道の大木に、大猿の居たりしを、これ究竟(くっきょう)の事なりとて討(うち) けり。夜に入(いり)、宿につき、明日皮を剥(はが)なん。凍(い)ては剥(はぎ)がたしとて、囲炉裏(いろり)のうへに釣(つり)おきぬ。深更(しんこ う)に目をさましみれば、いけておきし火影みえつ隠れつするを不審(いぶか)しくおもひ、能々(よくよく)うかがひみれば、子猿親の脇下(わきした)にと りつき居けるが、一匹づつかはるがはるおりて、火に手をあぶり、親猿の鉄砲疵(てっぽうきず)をあたためしを見るより、哀(あわれ)さかぎりなくて、我い かなれば、身一ツたてんとて、かかる情なき事をなしつと、先非悔(くい)て、翌日、頓(やが)て女房にいとまとらせて、頭をそり世をのがれ、一心不乱の念 仏者となり、諸国行脚(あんぎゃ)に出(いで)しとなん。

修身の教 科書に載った孝行猿
 孝行猿の話は、やがて時代も下ると修身の教科書にも教材として採り入れられました。明治時代に編集した「脩身口授用書」は、「猿子 親ヲ療シテ人心ヲ感 発ス」という題目で原拠に「新著聞集」を挙げています。
 その後、文部省が大正7年に発行した「尋常小学修身書 巻一」には「オヤヲタイセツニ」という題目があるが、それは絵だけのものでした。
 また、昭和11年に修正印刷した「尋常小学修身書 巻一」には、絵だけでなく文章も次のように載っています。
 
オヤザル ガ、ウタレマシタ。
コザルガ、タスケヨウ ト オモッテ、
ロ デ テ ヲ アブッテ、オヤザル ノ
キズグチ ヲ アタタメテ ヰマス。
 
 敗戦後に、修身科は廃止されて修身書もなくなりました。しかし、孝行猿の話を自主的に選んで、道徳教育の教材とした先生もいました。こうして孝行猿の話 は学校教育の始まった明治時代以降、教材として採用されてきました。

孝行猿の 舞台となった地元の様子
 孝行猿の話の舞台となったのは、秋葉街道から東に外れた標高約1,100mの地点にある、長谷村市野瀬区の柏木という10戸程の小さな集落です。市野瀬 集落の手前から三峰川を越えて東側の山の急坂を車で10分程登って行くと、山頂に出て広野が広がっていますが、ここが柏木集落です。
 孝行猿の話に出てくる勘助の家は現在も存在しています。勘助の子孫である高坂誉光さんがこの家に住み守り続けています。高坂家の入口の上には、「孝行猿 の家」と書かれた額が掛けられています。この家の一部は「孝行猿資料館」となっていて、親猿が吊された囲炉裏や狩猟道具・修身書等が展示されています。見 学者には無料で開放しています。
 ここから山道を30分程登ると、勘助が親猿を弔ったとされる小さな石の祠(ほこら)があります。軸部の正面には、「山神宮」と刻まれています。この祠の 向かって左には、「孝行猿の遺跡」と標示した記念碑も長谷村によって建立されています。また、この辺りにあった親猿を葬った松の木は、やがて古木となり枯 れ、昭和36年の大嵐のため倒れてしまったといわれています。

孝行猿の 碑
 孝行猿の碑は、市野瀬にある生涯学習センター「入野谷」の前に建っています。しかし元は、昭和41年3月に、伊那里小学校PTAが中心となって伊那里小 学校の玄関前に建てられていたものでした。この碑の建設しようとした動機は、「伊那里小学校沿革誌」(昭和43年発行)に次のように記されています。
 建設の動機 
 「年寄が忘れ去られて邪魔者扱いにされ、青少年の不良化が叫ばれるこの時、わが郷土に言い継ぎ語り継がれてきた三匹の子猿の親思う故事を像にして、子ど もらに贈り、子どもらに親しんでもらいたいと考えた。また山国育ちのこの土地の者は、とかく人の出世や幸福を・・・えせんだりおとしめたりする短所がある ので、幼い時から人を立て人の幸福を喜ぶ素地を養い、人間愛を育てたいという願いをこめての贈物としたいと思った。」
 碑石は、高さ180cmの大きな川原石で、中央部には孝行猿の説話を具象化したレリーフ(浮き彫り)を銅版で作って石にはめています。裏面には、「私た ちの郷土に、うつくしき故事ありて、永遠に愛と平和を祈りつつ、心をこめて、このレリーフを贈る。昭和四十一年三月 伊那里小学校PTA 製作者 藤澤古 實」と書かれています。
 製作者の藤澤古實は箕輪町出身の優れた彫塑家であり、アララギ派の歌人として有名な島木赤彦の門下生で、歌人としても活躍しました。この碑には藤澤古實 が詠んだ短歌を3首彫り込んでいます。
@けだものの 猿といへども 親を思ふ そのまごころは 人におとらず
A息たえし 親を生かさんと かはるがはる 傷あたたむる 三匹の子猿
Bとこしへに 語りつたへん 信濃路の 孝行猿の 子の心あはれ

とこしえ に伝える取り組み
3首目の短歌にもあるように、孝行猿の話を永久(とこしえ)に伝えるために、長谷村内では次のようなことに取り組んでいますので、ここに紹介します。

 長谷村での取り組み
親孝行について、古くから伝わる「孝子猿の民話の里 長谷村」から、今も昔も変わらない親を思う気持ちを世に訴える企画として、「親孝行の讃歌…両親にま つわる思い出の手紙」事業を行っています。これは、両親への感謝や親への思い出を手紙に綴ってもらうもので、平成11年度から実施しています。送られてき た手紙をすべて掲載した応募作品集「親孝行の讃歌」[第一集][第二集]も発刊しています。作品集は1部1,000円で郵送もしてします。
(お問い合わせは、長谷教育振興係まで。TEL0265−98−2009)
3回目に当たる今年度も、全国から多数の手紙が送られてきました。この中から、孝行賞・勘助賞・柏木賞の各賞入選作品を決めました。

 長谷小学校での取り組み
旧伊那里小学校と旧美和小学校が統合した長谷小学校においては、親猿が打たれた日に因(ちな)んで10月10日を「孝行猿の日」とし、この日の前後に毎年 小学3年生が孝行猿に因んだ歌や演奏やオペレッタ等を全校生の前で上演しています。このことより長谷小学校の卒業生は孝行猿の話が記憶に残り、受け継がれ ていきます。昭和60年度から始めているこの行事のテーマは「生命を大切に」ということです。

 紙芝居グループ「糸ぐるま」での取り組み
長谷保育園保母の久保田文子さんを中心とする、村内の若手女性達が集まって始めた紙芝居のグループ活動です。長谷村が大切に守り伝承してきた孝行猿の民話 を始め、村に眠るたくさんの民話を掘り起こし、それを紙芝居にして多くの人に伝えていきたい。そして、故郷を大切にする心・自然や人を愛する優しい心を育 てていきたいという願いからグループを結成しました。手作りで切り絵紙芝居を制作して、各地へ伝え続けています。
(お問い合わせは、長谷教育振興係まで。)

ご案内図

孝行猿の遺跡と祠
孝行猿の遺跡と祠

孝行猿のレリーフ
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